自分の壁
諏訪中央病院に初めておうかがいしたのは、二〇一九年のことでした。
毎年漢方医の桜井竜生先生と二人でお話させてもらっています。
諏訪中央病院の須田万勢先生のおかげであります。
先だってこの管長日記でも「壁を壊す」と題して書かせてもらいました。
毎年いろんなテーマをいただくのですが、今回は、「自分の『壁』を壊す」というテーマなのです。
いただいたチラシには、
「「自分」中心にものを考えることは、利益の最大化をもたらす本能的戦略といえますが、こだわりが強すぎると、他者とのコミュニケーションを妨げ、殻にこもってしまうことに。
結果・・・病気がうまく治らないことにも繋がります。
禅とは自身の心と向き合い、自然との合一を目指す教えであり、 東洋医学には人は自然の一部であるという法則のもと治療を行うという考え方があります。
「自分の壁」を壊すことができれば、人生がとても楽になり、いずれあの世に旅立つ日も楽に迎えられるかも。
今回は、講師のお二人に、楽に生きる秘訣を教えていただきます。
ご期待ください!」
と書かれていました。
壁を壊すと言われてまず頭に思い浮かんだのは、ベルリンの壁であります。
あれは一九八九年のことでした。
それまでは西ドイツ、東ドイツと分断されていたのでした。
その壁が文字通り壊されたのでした。
その頃私は京都の建仁寺で修行していました。
修行している頃は、新聞も見ることができないのですが、このニュースはよく覚えています。
新聞も読めないものの、お風呂を沸かすときに、その焚きつけに老師がお読みなった後の新聞紙を使わせてもらっていたのでした。
それから老師のおそばでお仕えしているときには、新聞が郵便受けに届いて、それを老師のところにお持ちする間に、一面の見出しだけは目に入るのであります。
それで、こんなことがあるのだと驚いたことを覚えています。
はじめにその話をしました。
これももともと壁はなかったのです。
壁のなかったところに私たちは壁を作ったのです。
まずそのことを話しますと伝えました。
しかし、現実は、私たちは壁がないと暮らせません。
隣の家との間に壁があるので、安心して暮らせます。
隣の部屋との壁があるので暮らせるのです。
本来壁がないことを知り、壁は仮のものだと知った上で壁を作り、その壁の向こう側と調和して生きるのだと伝えました。
そしてジル・ボルト・テイラーさんの『奇跡の脳』にある言葉を紹介しました。
「からだは浴室の壁で支えられていましたが、どこで自分が始まって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわからない。
なんとも奇妙な感覚。
からだが、固体ではなくて流体であるかのような感じ。
まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、からだと他のものの区別がつかない」
という言葉です。
ハーバード大学の脳科学者ジル・ボルト・テイラーさんは、三七歳で脳出血を起こし、自分の脳が壊れていく過程を体験しました。
左脳の機能が失われることで、自己と他者の区別が曖昧になり、自分と他人を隔てる壁の感覚が消えていくことを実感したのでした。
この感覚は、二つのことに極めて似ていると話をしました。
ひとつは誰しも必ず体験する死であります。
もうひとつは仏教や禅で説かれる悟りであります。
死については、立花隆さんの『死はこわくない』にある臨死体験をされた方の言葉を紹介しました。
「自分はずうっと落ちていく雪のようなもので、最後に海にポチャンととけて自分が無くなってしまう。そして最後に自分は海だったと思い出す」
という言葉です。
自分と外の世界を区分する壁が壊れていって、ひとつになっていく体験なのです。
お釈迦様が悟りを開かれたときに、
「家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。 」(法句経154『ブッダの真理のことば 感興のことば』)
という言葉を残しておられます。
家を作ることで自分と他人を区別するが、その壁が壊れることで悟りの境地に至るのです。
家屋というのは自己を表しています。
家を作ることで自分と他人を区別しています。
心の形成作用というのは、自他を区分し壁を作り、これが自分だと認識し執着するはたらきのことです。
家屋が壊れることで、自己と外界の区別が消えてしまうのです。
自分の他人のという区別のない世界、純粋ないのちそのものを「ダルマ」「ダンマ」と申します。
同じくお釈迦様の言葉に、
「実にダンマが、熱心に瞑想しつつある修行者にあらわになるとき、かれは悪魔の軍勢を粉砕して、安立している、あたかも太陽が虚空を輝かすがごとくである。」(『ウダーナ』)
というのがあります。
本来壁のない、自他の区別のない、いのちの世界が自覚されると、恐れや不安が消えてしまうのです。
そんな姿形のない、いのちがお互いの身体にはたらいているのです。
そこを臨済禅師は、
「心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。その一心が無であると徹見したならば、いかなる境界にあってもそのまま解脱だ。」
と説かれています。
自他を区分して壁を作る心が無いと気がついたら、どんなところでも安心して生きていけるのです。
そんな広い心を栄西禅師は、
「広大なるかな人間の心よ、天は空高くして極限がないが、それにしてもその心はその高さを超えて出でるものがあり、地は層が厚くして測ることができないが、それにしてもその心はその厚さの下をそれ以上にひろがり出でるものがある。太陽や月の光も心の光に較べたら、その光を超え得るものでなく、したがって心の光は日月の光明の上にさらに超出している。」(栄西『興禅護国論』)
と説いてくださっています。
公大なる心には自他を隔てる壁もないのです。
江戸時代の禅僧至道無難禅師は、
「生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき」
と詠われました。
「生きながら死人となり」というのは自他を隔てる壁を壊して生きることを申します。
そんな広い自他一如の世界を自覚して自由に生きるのが禅の教えだと話をしました。
しかし、最後には、自分も他人も区別はない、自他一如だからといって、お隣の人の荷物を持って帰ったら駄目ですよと申し上げました。
皆さん笑ってくれていました。
自他一如を自覚してその上で自他を分けて生きるのです。
その実践として
命あるものはむやみに殺さない。
人のものを奪わず壊さない。
他人を傷つける言葉を使わない
男女の道を守る。
お酒に溺れて生業を怠らない。
という規範を守っていくのです。
自己と他者の区別が本来的にないと自覚した上で、現実社会ではこのような戒を守ることが大切なのです。
生きることは自他を分けて暮らしています。
自他の関係をよく保って生きることが大事なのです。
その関係がよく分かるようになるには、自分自身をよく調えておくことが必要です。
そこで食事と睡眠、姿勢と呼吸、そして心を調えることが大事ですとお伝えして講演を終えたのでした。
横田南嶺