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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.09.14
今日の言葉

捨のこころ

三者三様法話会の三番目、トリは小池陽人さんでした。

その日も糞掃衣をお召しになって登壇してくださいました。

三番目、トリというのは、大役ですが、小池さんは、そう思うと重荷になるので、「二人の法話があって、そのあと私はおまけかなと思っています」と言って笑わせてくれていました。

糞掃衣をお召しになっていたので、糞掃衣のお話から始まりました。

糞掃衣というのは、法衣の上にまとう御袈裟のことです、

御袈裟といっても、糞掃衣はとくにさまざまなぼろ布を縫い綴った衣なのです。

聖徳太子がお召しになっていた糞掃衣が今も東京国立博物館に所蔵されています。
小池さんがお召しになっていた糞掃衣はまさにその聖徳太子の糞掃衣と全く同じ形、同じ模様で再現したものなのです。

このボロ布を縫い合わせた御袈裟がもっとも尊い御袈裟なのです。

そこにお釈迦様の教えが込められています。

小池さんは、それは一つには価値の転換だと仰せになっていました。

世間的には全く価値がないと思われるものにこそ、価値を見出そうとするのが仏教の教えだというのです。

ふだん我々は人と比べて、いろんなことで落ち込んだりして、自分には価値がないと思ってしまうこともあります。

そんな時に優しく仏教が寄り添ってくるのだというのです。

どんな存在も価値があるのだ、価値のないものなんてないのだと教えてくれるのが仏教なのです。

そして小池さんは、もう一つは、無分別ということを教えてくれていると仰っていました。

我々はふだん物事を必ず分けてとらえています。

分別しているのです。

それは美しい、醜い、よい、悪いと分別しています。

でもこの糞掃衣をあえて最も尊いとおっしゃったお釈迦様の心は、見た目の美しい、醜いとか、そういった分別心を超えたところに仏教の深い悟りがあるのだと示してくれているのです。

糞掃衣をこの今の世に再現されようとされたのは、小池さんがご尊敬なさっている山口の般若寺の福嶋弘昭さんが計画していたものでした。

それが福嶋和上様は、一昨年の一月に大動脈瘤解離でお亡くなりになってしまったのでした。

まだ五十歳だったというのです。

その福嶋さんの思いを小池さんが受け継いでいらっしゃるのです。

そんな思いを昨年の三者三様の法話会でお話くださっていました。

小池さんはこの福嶋さんのことについて、「生前もたくさんお世話になったんですが、でも会えるのは年に二回、三回、それぐらいです。

そのたびにお話をたくさん伺っていました。

でも会ってないときはそんなに意識することなかった。

ところが亡くなってからのこの三年間、この糞掃衣を纏うたびに福嶋さんが現れてくるんです」

と仰っていました。

私は、この言葉が一番印象に残りました。

福嶋さんが現れて、時には「おいおい、そんなことでいいのか」と問いかけてくるそうで

でもまた自分がすごく落ち込んでいる時には大丈夫だと、いつものあの笑顔で励ましてくれる姿になって現れるというのです。

「そう思うと私は亡き人と出会い直しているんだなということをこの三年間の中で何か学ばせていただいています。対話が深まっている感じがする」とお話くださっていました。

それから小池さんはいつもよくお話になる「一切皆苦」について話を進められました。

暖かい言葉で「皆さんもこの何か落ち込むときに「一切皆苦」という言葉を思い出していただけたらありがたいなと思います。

私にとってこの一切皆苦というのは言葉のお守りになっています。

思い通りにならないときには「一切皆苦」と口ずさむ御真言のようにしています。」

と仰っていました。

一切皆苦はまさにすべては自分の思うようにはならないという意味なのです。

そして菩薩の心、謝の心をお話くださいました。

捨というのは、「心の平静、心が平等で苦楽に傾かないこと」を言います。

まずは自他一如についてお話くださいました。

自体一如とは自分と他者を分けないということです、

それはとても難しいことです。

でもその第一歩となるのは他力を知ることだと小池さんは仰っていました。

私たちは自分の力だけでは生きていないのだという気づきが、自体一如に近づく最初の一歩だというのです。

大峰山の山に登って修行をされている小池さんは、西ののぞきという修験道の修行の話をなされました。

断崖絶壁につるされる修行らしいのです。

右足と左足それぞれを、先達という方が持ってくれているのですが、つるされるようになるのだそうです。

そのときにつるされ上手の人とつるされ下手の人がいるそうです。

つるされ上手の方は全てを先達に預けてくれる人だというのです。

つるされる人が、つるしてくれる方にすべてを委ねるというのはまさに自他一如の心です。

自分と他人とひとつになっているのです。

自他一如が「捨」の心に通じます。

私たちも食事をいただくという時は、作って下さった方にすべてを委ねていただいています。

おかげを知る心でもあります。

捨の心を実践されている例として、坪崎美佐緒さんのお話をしてくださいました。

坪崎さんはどんな人の中にも光があると見て話を聞くというのです。

あらゆるこだわり、とらわれ、それをすべて捨てて相手と相対するのが「捨」の心です。

大事なのは、慈悲の心をたたえながら、同時に捨の心を持っているということです。

「捨」の心というのは、決してどうなってもいいという思いではありません。

その人がきっとうまくいきますように、きっと悩みが晴れますようにという慈悲の心はたたえながら、でも自分が自分の答えに執着しないのです。

捨の心を持って、相手の言葉を、相手の存在をそのまま受け止めていくのです。

それが菩薩の心なのだとお話になっていました。

小池さんは「人を変えようとしても人は変わりません。

でも、人は人に理解された時に変わることができます。

自ら変わることができる。

皆様もぜひ菩薩の心を持って、捨の心を持って周りの方々と相対してみてください。」と暖かくそして力強く語りかけてくださいました。

三十分があっという間でした。

お声もよろしく、リズムもよろしく、お心がこもっていて深くこちらに心にも染み入ってきました。

まさしくこれぞ法話と思うお話でありました。

 
横田南嶺

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