臨済禅師と黄檗禅師
黄檗禅師のもとを臨済禅師が訪ねました。
臨済禅師は三年ほど行業純一と言われるように修行されました。
首座のすすめで三度黄檗禅師のところに問答に行って、三度とも棒で打たれて追い返されてしまいました。
愕然とした臨済禅師は、寺を去ろうとしますが、黄檗禅師のすすめで大愚禅師のもとを訪ねました。
『祖堂集』の記述によれば、黄檗禅師は大愚禅師と共に馬祖禅師のもとで修行していたのでした。
ただし黄檗禅師が馬祖禅師に参じていたかどうかについては、文献によって様々な説があります。
百丈禅師のところにいて、馬祖禅師のもとに行こうとしたら、百丈禅師から馬祖禅師は已に亡くなっていると聞かされたという話もあります。
臨済禅師は、大愚禅師のところで、今までの経緯を話しました。
三度も打たれていったい自分に何の落ち度がありましょうかという臨済禅師に、大愚禅師は、黄檗禅師はまるで老婆のような心遣いで、あなたのためにくたくたになるまで導いてくれたのに、なんということを言うのかと言いました。
その言葉を聞いて、臨済禅師は、黄檗禅師の仏法は実に端的そのものであったと気がついたのでした。
そうしてまた黄檗禅師のもとに帰ります。
それからというもの、臨済禅師は師匠の黄檗禅師を勝るような働きぶりを示します。
あるときは山の作務の場面で、あるときは坐禅堂において、見事な問答をなされています。
大機大用というのか、自由自在なはたらきをしていた臨済禅師でありました。
あるとき臨済禅師は夏安居の半ばに、黄檗山に上ってきました。
これは極めて異例のことであります。
安居というのは、岩波書店の『仏教辞典』にも、
「仏教教団で、修行者たちが一定期間一カ所に集団生活し、外出を避けて修行に専念すること、またその期間をいう。
雨季の定住。<雨安居(うあんご)>ともよばれる。」
と解説されています。
また「インドでは春から夏にかけて約3カ月続く雨季の間は、外出が不便であり、またこの期間外出すると草木の若芽を踏んだり、昆虫類を殺傷することが多いので、この制度が始まったとされている。」と書かれています、
雨安居中は禁足といって外出できません。
またそのお寺で修行するにも安居の始まる前に入門していないといけないことになっています。
夏安居の途中でやってくるのは、規則に反した行いです。
臨済禅師にしてみれば、出るも入るも自由自在というところなのでしょう。
すると黄檗禅師はお経を読んでいました。
そこで臨済禅師が黄檗禅師に言った言葉が、
「我れ将に謂えり是れ箇の人と、元来是れ揞黒豆の老和尚なるのみ。」
というのです。
岩波文庫の『臨済録』には、
「「私はあなたこそはと思っていましたが、なんだ黒豆食い(お経読み)の老和尚だったんですか」と訳されています。
「揞黒豆」というのは難しい言葉です。
「揞」という字には、「かくす、おおう、なげうつ」という意味があります。
黒豆というのは、お経の文字を表します。
文字をなげうつことかとも思われますが、伝統的には『景徳伝灯録』に、ここの揞黒豆」の「揞」が「唵」となっていることを採用しています。
「唵」には、「ふくむ。口の中に物をふくむ。ほおばる。」という意味があります。
黒豆を口に入れて頬張ることから、文字を一字一字読むことを表しています。
山田無文老師は、禅文化研究所発行の『臨済録』に、
「今、天下に黄檗こそ活眼を開いた大和尚だと思っておったに、なアーんだ、黒豆を一つ一つ拾って食らように、お経を誦む坊主だったか。
ただの下らん経誦み坊主だったか」
無調法なことを言うたもんだ。
黄檗、返事もせなんだ。
我が応灯関の一流は松源黒豆の法というて、坐禪が済んでも子細に一切経を読んで古教照心していくのが、宗門の正脈だ。
松源黒豆の法だ。
臨済ほどの男ではあったが、若気の至りというか、反省をしておらんというか、粗削りというか、無調法なことを言うた。
自分はもう悟りを開いたつもりで、黄檗のもとをすでにおいとまして外に出ているのだから、雨安居の修行に参加しなくてもいい、とちよっとした慢心が臨済にはある。」
と説かれています。
「古教照心」とは、古教は昔から伝えられてきた教えであり、仏典や祖師の言葉を言います。
照心は心を照らすことで、自らの内面を明らかにすることであります。
綿密に経典語録を学んで研鑽を積んでゆくことが大事なのです。
そうして、しばらくして臨済禅師はまたどこかに行こうと思って黄檗禅師のところに挨拶に行きました。
そこで、黄檗禅師は
「おまえさんは、この一夏の修行期間の途中でフラリとやって来ておいて、また一夏の途中で出て行くのか。
夏の始まる前に来て、夏を終えて出て行くのが規則だぞ」とたしなめます。
すると、臨済禅師は「私はご機嫌うかがいに来ただけです。」
答えます。
無文老師は「夏を破ろうが、夏中に来ようが、そんな下らんことは私に用はござらん」私にはもう修行することはありませんよ、という肚である。」
と説かれています。
すると、黄藥禅師は臨済禅師を打って追い出してしまいました。
臨済禅師は数里行ったところで「はてな、待てよ」と思い返して、引き返して安居を終えたのでした。
原文には、「師、行くこと数里、此の事を疑って却回して夏を終う。」とあります。
却回は昔からの読み癖で「きゃうい」と読んでいます。
疑うというのは、「能く其の意を測り知る」ことだと註釈には書かれています。
大森曹玄老師は、ここのところを『臨済録講話』の中で、
「ハテナ、これには道理のうえで、もっと究めなければならない深い何ものかがあるにちがいない、こう思った臨済は、僧堂に立ち帰って衆とともに坐ったが、別に師に問うべき疑問はひとつもない。
しかし、黄檗の深い慈愛はよくわかったであろう。
「臨済の一宗、末世に光大なるは実にこの一疑に係る」とさえ、古人はいっている。
さて、洗濯物に残った石鹼の香いにもひとしい悟りくささをすっかり洗い落した臨済は、夏未になったので山を下るべく、黄檗にお別れの挨拶を告げに方丈に罷りでた。」
と説かれています。
石鹸のにおいというように、臨済禅師のほどの方でもほのかに慢心というものが残っていたのでしょう。
それがすっかり抜け落ちたのです。
かくして臨済禅師は、黄檗禅師の法灯を受け継ぐようになるのです。
横田南嶺