はじめ塾で対談
はじめ塾で出している『あやもよう』という冊子があって、その来年正月号に掲載する対談でありました。
はじめ塾の二代塾長の和田重宏先生と対談をしました。
司会は今の塾長である和田正宏先生がつとめてくださいました。
はじめ塾では、小田原市内で、十数名の中学、高校生が寄宿生活をしています。
その日は二学期の始業式の日で、ちょうど対談が終わる頃に、子供たちが帰ってきました。
和田重宏先生は、今年八十歳になられますが、とてもお元気で矍鑠としていらっしゃいます。
対談はお茶を飲みながら自然と始まりました。
お茶もお菓子も手作りであります。
それだけにお茶も味わい深く、そしてお菓子もやさしくほどよい甘さでした。
はじめから福岡正信先生の話になりました。
福岡正信先生というと『わら一本の革命』という本がございます。
自然農法と言われるものです。
耕さないし、肥料を施さないし、除草もしません。
無論、農薬は使いません。
粘土団子という、粘土に種を混ぜて団子状にし、畑や荒地にまく方法なのです。
自然農法と有機農法というのは、これまたべつものです。
有機農法は、化学肥料や農薬の使用は避けますが、堆肥、油かす、鶏糞などの有機肥料を積極的に用います。
除草は手作業などで行いますし、病害虫対策として、木酢液など自然由来のものを用いたりします。
はじめ塾を始めた和田重正先生は、自然農法ではないのですが、福岡先生と話をしていると、意気投合していたというのは興味深いことでした。
お互いに何か通じ会うものがあったのでしょう。
和田重宏先生は重正先生の子でいらっしゃいます。
対談をしていて、和田重宏先生は、当時の錚々たる先生方に会っていらっしゃることに驚きました。
私は和田重正先生のことは書物で学んでいました。
『葦かびの萌えいずるごとく』という本はよく読んでいました。
和田重正先生は、一九〇七年のお生まれで、私の恩師松原泰道先生と同じ歳です。
坂村真民先生はその二つ下です。
福岡先生は、一九一三年のお生まれです。
和田重宏先生がもっとも薫陶を受けられた内山興正老師は、一九一二年のお生まれです。
二十世紀のはじめ頃に、このような方々がお生まれになっているのです。
私は、小学生の頃から坐禅を始めて、中学の頃から独参を始めて、禅の修行に関心をもっていました。
それが高校生になると、当時はもう受験戦争という言葉もあって、そのような雰囲気には違和感を覚えていました。
それだけに、真民先生や、福岡先生の本などを読んでいました。
和田重正先生の本もそうでした。
受験主義の学校教育とは違う世界のあることに心惹かれていたのでした。
それを強いて言葉で表現するならば〝いのち〟の世界とでも言いましょうか。
和田重正先生の『もう一つの人間観』のはじめにこういうことが書かれています。
「自分自身について疑いもなく確信できることの一つは、~自分が生きている~という事実です。これは推理や証明が要りません。
ここで、生きているとはどういうことか、と問いつめられると、いろいろな説明が出てくるでしょうが、どんなに上手に説明されても差し当たりの問題解決には何の役にも立ちません。
役に立つのは、理屈はともかくとして,自分は生きているという事実の承認だけです。
そこで、それが認められるなら、生きるという事実をあらしめている力があるに違いないと考えられます。
何かに変化を与える作用をするものを力と言うのでしょうから、生きるという一種の変化を起こさせるものも力だと言ってもよいと思います。
その力を私はいのちと呼ぼうと思います。」
というのです。
ではこの〝いのち〟とはどのようなものなのか、
『葦かびの萌えいずるごとく』には、こんなことが書かれています。
「この“いのち”はどこから、なにに伝わって来るのだろう。
そしてあの可愛い葉を出し、きれいな花を咲かせ実をならせ、奇術のような種播きをすませて、またどこかへ行ってしまう。
なんのために、そんなことを。
それより、“いのち”が、スミレに宿って、芽を出させ花を咲かせ、奇術を行わせるのだろうか。
それとも“いのち”がスミレの色や形となるのだろうか――。
スミレが“いのち”なんだろうか。
川底に息む数千尾の魚に“いのち”が宿っているのだろうか。 “いのち”が魚をつくっているのだろうか。
みんな“いのち“なんだろうか。
そんなことは考えなくても大学に入ることはできる。大学者になることも、大金持になることもできる。
だけども、こんなことを考えられるのは人間だけだ。虎や狼には“いのち”の不思議を思うことはできない。
“いのち”の不思議さがわからない彼等には、攻め合い、奪い合い、殺し合うより生きる道がないのだ。
人間だけがいのちの不思議さを知って、攻めず、奪わず、与え、与えられ、愛し愛されて生きることができるのだ。」
という言葉です。
この〝いのち〟という言葉に力強い響きを感じたものです。
和田重宏先生は、十六歳の時に京都の安泰寺に行って内山興正老師に出会っていらっしゃいます。
人生の節目節目に内山老師の言葉をいただいて、頼りにして来られたことがよく伝わってきました。
森信三先生もはじめ塾によくお越しになっていて、腰骨を立てることをよくお話くださっていたそうです。
それから押田成人神父の名前もでました。
野口晴哉先生にもご縁があったそうなのです。
土光敏夫さんの名前も出てきました。
大雄山の余語翠厳老師は近くでもあり、とても懇意にされていたそうです。
みな〝いのち〟を生きた人たちです。
いろんな話をたくさんうかがうことができました。
素晴らしい〝いのち〟の世界を垣間見た思いでした。
床の間には、余語老師の「常に是の好夢有り」という書がかけられていました。
まさによき夢の中にいたようなひとときでありました。
対談というよりもこちらがいろいろ話を聞かせてもらったのでした。
終わると子供たちが帰ってきて、はじめ塾の皆さんとお昼ご飯をいただきました。
うどんでしたが、そのうどんもはじめ塾の子供たちが作った麦で出来ているのです。
たくさんの天ぷらもみな畑で作ったお野菜でした。
どれもとても美味しく頂戴しました。
はじめ塾は、こういう生活を大事にしているのです。
生活をするということは人間の原点です。
和田先生も今の子はこの生きる力が弱くなっていると危惧されていました。
帰りには皆さんが外まで見送りに出てくれました。
これまた夏の合宿に続いて有り難いご縁でありました。
横田南嶺