円覚寺の震災
『円覚寺史』によれば、
全壊した建物が、
舍利殿、佛殿、方丈、庫裡、表書院、裏書院、坐禪堂、隱寮、事務所、浴室、南下馬門、北下馬門、總門、勅使門、舍利殿門、萬年門、坐禪堂附屬建物五というもので、合計二十一棟もあります。
それから半壞した建物は、
開山堂、時宗廟所、宿龍殿、隱寮、新寶藏、舊寶藏、選佛場、辨天堂、通用門、門番所、正續院鐘樓、洪鐘鐘樓
と合計十二棟あります。
「山門」については、『円覚寺史』には、「柱の沓石がはづれかけたが大した被害はなし」と記されています。
あの大きな山門が倒れなかったというのは不思議であります。
その後の復興については、『円覚寺史』には次のように記されています。
「震災で大被害をうけた圓覺寺の復興は先づ特別保護建造物指定の舍利殿より始められた。
舍利殿は明治三十三年に修補されたが震災で全潰した。
ただし屋根は異状なかったので精密調査をしつつ解体し、実測図を作製、各材料に詳細記号を附け、小破片も含め保存小屋に収蔵、
大正十四年国庫補助により再建、出來るだけ原材を使用、取替材は原形どおりとした(廻廊は昭和十年復)。」
と書かれています。
さすがに国宝舎利殿は大正十二年に倒壊して、その二年後には再建なされています。
それから
「つづいてわずかに倒潰を免れた選佛場を修理し仮佛殿とし、開山堂、開基廟等を修理し、專門道場は仮禅堂を建て雲衲の修禪は續けたが、昭和二年堯道が禪堂再建募緣簿の序を作り十方の寄進により昭和五年禪堂と聖侍寮、隱寮を新築、六年宿龍殿、萬年門、山門改修。」
と書かれています。
倒壊を免れた選仏場を修理して、その後は仮の佛殿としたのでした。
佛殿の再建は昭和三十九年のことになりますので、それまでは選仏場が佛殿の代わりをしていたのでした。
舎利殿に続いて復興が早かったのは、修行僧が修行をする禅堂などであります。
当時の管長だった古川堯道老師が、再建を志し、昭和五年には、禅堂などができ、一撃亭という老師のお住まいも新築されたのでした。
修行道場の本堂にあたる宿龍殿は倒壊を免れたのですが、改修なされています。
それと同じくして、
「方丈書院庫裡は大正十四年五月に再建勸募趣意書を作り派內寺院、三寶會及び一般檀信徒の寄進により帝室技藝會會員佐佐本岩二郎氏の設計監督、大工加納茂一氏により昭和二年着工、
昭和四年大方丈、庫裡、書院新築、竣功し、四月三日天龍寺派管長關精拙、相國寺派管長橋本獨山をはじめ各山の尊宿、派內寺院、檀信徒七百名來集盛大に慶讃式が行はれた。」
と書かれています。
禅堂よりもほんの少し前に、方丈や書院が新築されているのです。
それから
「昭和十年勅使門復旧、再建费一部は法座料を充て、一部は關本長福寺主柳川法誠寄進。
それより前に總門も復旧した。
本尊は同十年東京本町松柏居士小西新兵衛修理費を寄進修補され仮佛殿に奉安した。
昭和三十八年秋新佛殿に奉安、この時寶冠を新造。
大光明寶殿の勅額は額草より清水組設計主任廣江文彦新刻して掛額した。」
と書かれています。
また「昭和三十七年白鷺池整備復旧、
三十八年總門及び大方丈周圍の塀を復旧(前は土塀であつたがブロック式,塗裝、五條入)、
勅使門前石階は鎌倉石を除去し白河石を以て新裝、
選佛場は三十八年冬須彌壇を除去改裝、六十餘畳の畳を敷き、裹に約二十坪の侍者寮東司を新添し修練道場とした。」
と書かれていて、昭和三十九年に佛殿の落慶が行われる頃までに、浴室と事務所の他はほぼ震災前の姿に復旧したのでした。
朝比奈宗源老師の『獅子吼』には、「大震災回顧」として次のように書かれています。
「大震災は大正十二年(一九二三)九月一日である。
九月三日は当山開山佛光国師の毎歲忌に当るので、一日は早朝から一山総出仕で諸堂の荘厳をし、まず開山塔舎利殿から大方丈をすませ、午後に佛殿をしようと、点心をして一休した。」
と書かれています。
今は開山忌は一月遅れで、十月三日に行っていますが、この頃は九月三日に行われていたのでした。
「午前十一時五十八分がその時間である。
私も宗務院にあててあった離れの客間で、宗務当局、来客と対談中であった。
どしんという恐ろしい大音響がしたと思うと、みしみしと屋鳴し震動して来た。
私ははじめ地震とは思わず、横須賀あたりの火薬庫の大爆発だと思い、その現場の損害など頭にえがいていた。
ところがみしみしがひどくなり、同席した井上宗環総理、天野俊道執事、斎藤玉応師等が、相ついで庭に飛び下りた。
私もその後に続いた。
庭さきにあった竹垣にしがみついて見るともなしに見ると、今までいた建物も、大常住の庫裡も、音もなく土烟をあげてつぶれた。
その時私は、たしかに何にも音響をきかなかった。
眼の前で井上総理がふり落されそうになっては垣根にしがみついていた。
それがおかしくさえ思えたし、又、これが人間の世界だ、開山忌が滅山忌となったとも思い、庫裡のつぶれたのを見て、食後たしかに庫裡に残っていた寿德庵の石窓和尚、東慶寺禅忠和尚のことが気になった。
少しすると、つぶれた庫裡の茅屋根の破風の破れ目から、煤だらけになった禅忠和尚が顏を出し、私共を見つけると、「ばあー」といって笑い、茅をかきわけて出て来た。」
と書かれています。
方丈や書院などが倒壊したときの様子が伝わってきます。
幸いに当時の管長だった古川堯道老師は、僧堂の隠寮でご無事だったようです。
その堯道老師が、お金をだして玄米を買われて山門下にかまどをつくり、お粥を炊いて往来の方に接待されたと書かれています。
震災の当時のことが伝わってきます。
堯道老師は、昭和五年まで管長を務められ、昭和五年から十年までは太田晦巌老師、昭和十年から十五年まで再び堯道老師、昭和十五年から十七年まで棲梧寶嶽老師、そして十七年から朝比奈宗源老師が管長をおつとめになっています。
代々の管長さま、そして本山の和尚様方のご苦労を思います。
横田南嶺