身体の不思議
関東大震災の日であります。
一九二三年のことでしたので、もう一〇二年前のことであります。
円覚寺もほとんどの伽藍を失い大きな被害を受けたのでありました。
さて、先日は甲野陽紀先生にお越しいただいて講座を開いてもらっていました。
甲野陽紀先生は、甲野善紀先生のご子息であります。
毎回いろいろと勉強させてもらっています。
身体の勉強については、毎回毎回学ぶことが多いのであります。
今回も実に何度も何度も首をかしげるような不思議な感じがしていました。
我が身体のように思っていますものの、自分でも知らない不思議な世界がこの身体に起きるのであります。
今回は、藤田一照さんもご参加くださいました。
お忙しいのに、時間の都合がついたのだと言ってお越しくださいました。
講座の間も最も熱心に質問されていて、その学ぶ姿勢には、こちらがいつも学ばせてもらいます。
一動作一注意という説明から始まりました。
この言葉だけでもとても禅に通じるのです。
「一動作一注意」とは、「ある動きをするときには一つのことに注意を向けることが大切」という意味です。
今回まずは前回の復習を兼ねて大転子から始まりました。
大転子というのは、大腿骨(ふとももの骨)の上端、外側に突き出した部分を指します。
大腿骨の最上端には「大腿骨頭(股関節の関節面)」がありますが、そのすぐ下の外側に、外に張り出した骨の隆起があり、これを大転子と呼びます。
ちょうど 股関節の外側に手を当てたときに触れられる出っ張りが大転子です。
甲野先生はまず自分の尾骨に触れるように指示してくれました。
その尾骨の高さで、ちょうど太ももの外側の一番上あたりにくると骨のでっぱりが感じられます。
それが大転子だとわかりやすく教えてくださいました。
こういう教え方がお上手だといつも感心させられます。
尾骨というと誰でも分かるところですから、そこからたどらせてゆくと分かりやすいのです。
大転子に触れたところの皮膚、表層に注意を向けるのです。
大転子置くと言うだけで身体がとても安定します。
一人の人が、両足を踏ん張って立っていて、橫から押そうとしてもなかなか崩れません。
大転子の骨を注意して押しても動きません。
太ももの筋肉を押してみても動きません。
しかし、その大転子の表層、皮を押そうとするともろくも崩れてしまうのです。
こんな不思議があるのです。
そこで初めて教わった実験が興味深いものでした。
五人で一組になります。
一人の人が押す役目です。
四人が縦にならびます。
先頭の人は、皮膚の役目です。
二番目と三番目の人は筋肉の役目です。
一番奥の四人目の人は骨の役目をします。
押す人は、まず一番奥の骨の人に注意を向けて、骨の人を押すと思って四人を押してもびくともしません。
二番目や三番目の筋肉の人を押そうとしてもびくともしません。
しかし、表面の皮の人を押そうとして押すと、四人が崩れて押されてしまうのです。
この場合筋肉の人は押されて抵抗しますが、皮の人は何もしないというのだ大事だと言われました。
そこから撫でるということを教わりました。
たとえば、腕を掴んで引っ張ろうして、抵抗されるとなかなか引っ張れないものです。
ところがスッとそのその腕の皮膚を撫でて、その皮膚に触れて引くとスッと相手が引っ張られてしまいます。
こんなことを二人一組で実験します。
私は今回藤田一照さんとペアになって行いました。
だいたい一照さんはなにもしなくても身体はとてもどっしり安定しておられます。
それでも皮膚を撫でてスッと皮膚を引くようにすると、一照さんの身体がスッと崩れるので不思議でありました。
そこで仙骨を撫でるというのも行いました。
これは日常でも使えそうであります。
仙骨に両手を当てて両側に広げるように撫でるのです。
それだけで身体が変わるのです。
正座の時の方法はとても参考になりました。
正座してももとふくらはぎの間に座布団を挟みました。
布団を挟むという気持ちで坐るのと、皮膚が座布団の表面に触れると注意して坐ると安定感が増すのです。
そこで座布団を使わずに行いました。
股の裏がふくらはぎの皮膚に触れるようにして坐るのです。
皮膚の表面に触れるように坐ると安定感が増すのです。
これは不思議でありました。
この座り方、感覚はいろんなときに応用できると思いました。
それから今回の驚きが皮膚の裏側に注意を向けるということでした。
はじめに皮膚の裏と聞いて不思議に思いました。
なにがどう変わるのかと思ったのでした。
皮膚の表層だととても意識しやすいものです。
目に見えてはっきり形も分かります。
ところが、皮膚の裏といわれると、形が想像できません、
目に見えませんし、はっきりしません。
それで実に身体が自在に動けるようになるのです。
甲野先生は身体がネコ化すると表現されました。
たとえば一人の人が棒を持って、その棒を動かすようにします。
もう一人の人がそれを身体で止めます。
棒を持った皮膚の表層に注意して動かそうとするともう一人の人は止めることができます。
ところが、皮膚の裏に注意して動くと、もう一人の人は止められないのです。
これは不思議としか言いようがありません。
私は一照さんと二人で行っていましたが、お互いに目を丸くするばかりでありました。
身体に触れていても皮膚の表層を注意するのと、皮膚の裏を注意するのとでは全く身体の質が変わっているのです。
全体が繋がっていて、力みがないという感じです。
ぐにゃっとしたネコの感じであります。
お腹を膨らますにしても皮膚の内側を広げるように意識すると違うものです。
それは風船の譬えがわかりやすかったのでした。
風船を膨らますのは表面を膨らますのではなく、内側を膨らますのです。
これはなるほどであります。
有形の具体的なものに注意するときの身体の感覚と、無形なものに注意するときの身体の感覚の違いが実に興味深いのでした。
有形なものには、わかりやすいのですが、そこにこわばりが生まれるように感じました。
こわばりは力みを生みます。
力みがあると強いようですが、それはより強い力にもろくなってしまいます。
無形なものは、わかりにくいのですが、こわばりやこだわりがなくなって、全体がつながる感じがするのです。
力みがないので、力では崩せなくなるのです。
そこに柔軟でいてどんな動きにも対応できる自在さが生まれます。
ネコ化といわれるところです。
これは公案で隻手の声を聞けというと、無形で想像しようもないものに意識を向けますので、執着やとらわれが消えるのと通じる一面もあるかなと思ったのでした。
公案は心の問題ですが、注意の向け方で身体が変わるのが不思議です。
身体の不思議に目を丸くしたのでありました。
横田南嶺