北条時宗公
朝比奈老師の『獅子吼』にも「時宗公を鑽仰する」という長い一章があります。
その冒頭に次のように書かれています。
「大本山といわれるほどの寺には、どの寺にもかならずそれ相応の由緒があり、天皇家をはじめ、公卿、大名等が開基となっていて、その開山の宗旨を信仰するとか、その高德に帰依するとか師檀の関係の密接なものがあるが、円覚寺と北条時宗公との関係はまた特別である。
第一その建立の動機も、時宗公が開山佛光国師の宗旨、すなわち禅に傾倒し、開山の人格を敬慕したことは、ほかの場合とほぼ同じであるが、当山の場合はもう一つ全く異なった理由がある。
それは時宗公が大蒙古帝国がわが国を征服しようとして、来寇した、文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)との大戦をたたかい、これを打ち退けて、その間に戦病没した同胞の霊と、わが国から見れば敵であるが、世界制覇の野望にかられた蒙古王のために、心ならずも従軍し来って不幸にしていのちをすてた敵将兵の霊とを、あわせて弔らおうと願って建てた」のが円覚寺であると書かれています。
敵味方の供養をするのであります。
朝比奈老師は、このような敵味方供養の性格をもった寺はほかにもあると、何ヶ寺かの例を示しています。
しかし、それらは自らは侵略する側でありますが、円覚寺の場合は、全く受け身的防衛であったと書かれています。
それにも関わらずこういう願いを起こされたのは、怨親平等という仏教の大慈悲の精神を具現化されたものだというのです。
また「怨みは怨みによってしずまらず、怨みはただ怨みなきによってしずまる」という、仏教のおしえる人類の平和実現への究極的理念を実践されたものだと強調されています。
そして、「時宗公は十八歲で執権の重職につき、三十四歲で逝去されるまで、大蒙古の武力と外交との攻勢に屈せず、わが国の独立を守り通し、二大戦役で与えた打撃は蒙古をして全世界制覇の野望を拋棄するに至らしめ、欧州でローマが侵路をまぬかれたのもそのおかげだといわれる。
人類の自由と平和の守り神的な役割りを果した、どこへ出しても一点非の打ちどとろのない偉大な英雄だ」と称賛されています。
もっとも今日では歴史の人物についてはいろんな評価もあるようですが、朝比奈老師にとっての時宗公は、そのような存在だったのであります。
時宗公について書かれた朝比奈老師の文章をもう少し学んでみます。
「公は謡曲「鉢の木」の伝説をのこした名執権最明寺時頼を父とし、これも一門の北条重時の娘を母として、建長三年(一二五一)五月十五日に生まれた。」
「公の生まれられた五月十五日は天気もよく風も静かな日であって、北条一門は大よろこびを」したのです。
「幼な名を正寿丸といい、また相模太郎ともいわれた」のであります。
七歲の時、将軍宗尊親王によって元服の儀が行なわれました。
また「時宗公の幼時については一向これという話も伝わらないが、十一歲で一つ年下の安達義景の娘と結婚した。
義景は時頼の母、松下禅尼の兄である。」と書かれています。
それから
「公が十三歲の時、弘長三年十一月二十二日、父時頼が死んだ。
時頼は早く大覚禅師を請じて建長寺を開き、その指導をうけ、のち来朝した兀庵禅師の提撕の下に大悟した、わが国の武将の中で、最も禅の修行に力を入れ、造詣のふかかった人で、その臨終の時も、ちゃあんと法衣に袈裟をかけ、坐禅して、「業鏡高く懸る、三十七年、一槌に擊砕して大道坦然たり」という偈を唱えて、そのまま死なれた。」
「十五歲で左馬権守(さまのごんかみ)をかねて相模守に任じられた。
この相模守は代々北条家の当主が任じて来た職であるから、実質的にほ嫡子としての公が、その家の相続をしたようなもの。
十八歲の文永五年正月、蒙古の使者がはじめて太宰府に来て、二月にその国書を提出した。
蒙古の日本恫喝の第一声である。」
と文永の役への始まりが書かれています。
文永の役については次のように書かれています。
文永「十一年十月、元は蒙漢軍一万五千人、高麗軍八千人、高麗の梢工水手(水夫のこと)六千七百人、総計二万九千七百人を、大小艦船九百艘に分乘させてわが国に来攻した。
敵はまず対島、壱岐の二島を攻略してその守備の人々をみな殺しにし、二十日未明から博多西方の海岸から上陸を開始した。
敵は兵器も戦法もわが国にくらベてずっと発達していたが、かねて公の命令によって今日あるを期していた、小弐・大友・島津・菊地・竹崎等の九州の諸将が、奮戰してこれにあたったので、一旦上陸に成功した敵も、わが軍が反覆する波状攻擊と、次ぎに来るベき夜間襲撃をおそれたか、あるいは副将劉復享が戰死したためか、その日の中にみずから退いて海上の艦船に帰った。
この夜、猛烈な台風がきて敵艦の大半は沈み、残れるものはあわてて高麗に引き返した。」
と書かれています。
文永の役のときに台風が来たかどうかについては今日諸説ありますが、とにかく一日で退却したのでした。
弘安の役については、
「元は第一回来寇のあと、日本恫喝のためよこした二回の使者がいずれも斬られて、わが国に全く妥協の意志のないことを知ったので、いよいよ曰本再征を決し、征日本行省という役所を置いて大水軍の建造に着手した。
こうして十分準備した元は、弘安四年に東路軍として、蒙漢軍一万五千人、高麗軍一万人、高麗の梢工水手一万七千人、合計四万二千人、艦船大小九百隻、江南軍として兵十万、艦船三千五百隻をもって来寇した」。と書かれています。
五月三曰、朝鮮南岸の合浦を出発した東路軍は、五月二十一日までに対馬について日本の守備隊を殲滅し、壱岐も占領しました。
このとき江南軍は遅れてしまったようで、東路軍のみで博多湾に迫りました。
その頃には我が国も沿岸に防塁を築いて防戦したので、文永の役の時のように容易には上陸できませんでした。
江南軍も遅れて六月になってやっと出立して六月下旬に東路軍と合流したのでした。
しかし、そうして応戦しているうちに大きな台風がきて、敵艦隊の大部分は破損し沈没したのでした。
朝比奈老師は、時宗公のことを、
「殊にかかる時局にあって、その総指揮官たる公の心構えは何よりも重要である。
公は自ら金剛経、円覚経、般若経等の諸経を血書して神佛に勝利を祈ると同時に、師の佛光国師に参禪して昼夜その精神修養を怠らなかった。
国師の語録に、「弘安四年、虜兵百万博多に在り、略ぼ経意せず、ただ毎日老僧を請じて、諸僧と与に下語し、法喜禅悦を以て、自ら楽しむ」とある。
また第二回大挙来寇の報が鎌倉に達した時、公は国師をおたずねして、こういう問答をかわした。
「弟子、大事到来せり」。
国師「いかんが向前せん」、公、威を振って一喝す。
国師、「真の獅子児、能く獅子吼す」と。
いかにも小気味のよいやりとりだ。
わが民族の運命をかけ、わが生命をかけた大事にのぞんで、いささかの迷いもない。
これは公が少年時代から、大覚、佛源禅師等の指導をうけて、鍛えに鍛えた結果で、一朝一夕にいける境涯ではない。こうした泰山前に崩るるとも眼をまじろがさない底の力があって、はじめてああした見事な統帥力を示したのだ」
と讃えられています。
朝比奈老師の、時宗公への深い尊崇の思いが伝わってきます。
横田南嶺