懺悔の法
こちらは、ほとんど七十代以上の高齢者の会であります。
前回の講義の折に、腕組みしながら聞いておられた方がいらっしゃったので、今回は、まず坐禅の姿勢をとってもらい、そのままの姿勢で聞くように指導させてもらいました。
この会は、かつて興禅護国会に参加したことのある方に限定して開催しています。
ですから、祖録の講座を聴く時の姿勢などはじゅうぶんにできていると思っていました。
しかし、ご高齢になると、そんなことも忘却のご様子であります。
イスの背もたれにはもたれかからずに、腰を立てて背筋を伸ばして、手は法界定印を結んで坐禅の姿勢で聞くように申し上げたのでした。
私などはやはり『臨済録』を拝読するとなると、正装をするものです。
白衣を着て、法衣を着て講本を開きます。
その折りに申し上げたのですが、禅というと、いかにも大らかな精神の自由を謳歌する一面があり、それと同時に、礼儀作法をゆるがせにしない綿密さの両方を兼ね具えています。
この両方を具えていることが大事なのです。
大らかな自由さだけでは、千数百年の歴史を刻むことはできなかったと思います。
また型どおりの作法だけでも歴史の中を生き抜くことはできなかったと思います。
いかにも大らかで自由な一面と、いささかの不如法なることも許さない厳しさとの両面が大事であります。
その日の聴衆の方を拝見すると、お一人だけ、きちんとスーツネクタイの方がいらっしゃいましたが、あとは半袖シャツで、あたかも遊園地に遊びに行くかのような出で立ちであります。
些か苦言を呈しておいたのでありました。
『臨済録』という和綴じの講本を開くのは、臨済禅師にお目にかかることであり、この講本を代々伝えてくださった祖師にもお目にかかることでもあります。
和服であれば、羽織を羽織って威儀を正すところであります。
臨済禅師もお若い頃には律を綿密に学んでおられたのでした。
午後からは春秋社に行って、『天台小止観』について話をしていました。
『天台小止観』には、戒について説かれ、そして同時に懺悔についても説かれています。
三帰戒や五戒を受けて仏教徒となり、戒を受けてからのちは清净にそれを守ってこれを破ったことも犯したこともない人がいるとします。
そういう人は、実に「持戒清浄」でそれは最もよい生活態度の人です。
そういう人が坐禅をすれば必ず仏法を悟ることができると説かれています。
しかし、戒を受けることができたにもかかわらず、その後の生活のなかで、重い戒こそ犯さなかったけれども、種種の軽い戒についてはこれを破ってしまうような人もいます。
多くはそうだと察します。
私などもまさにその通りです。
殺人や窃盗という犯罪を犯すことはないにしても日常の中で細かなことで戒にもとることがあるものです。
でもこのような軽い戒をやぶる程度であれば、まだ禅定の修習に入ろうとして、定められた正しい方法でよく止観をすれば、それは大清浄な生活態度の人と言い得ると説かれています。
しかし仏の戒を受けてからのちも、堅い決意でそれをまもり通すことができないで、軽い戒においても重い戒においても破ったり犯したりしたことが多い人が実は大多数であると説かれています。
そのあとに「小乗仏教で殺生、偸盗、邪姪、妄語の四種の重罪を犯してしまった者には懺悔を許す方法がない。けれども、大乘仏教によれば、それらをも懺悔し、その罪を取り除くことができるとする」と説かれています。
そうして懺悔の方法が示されているのであります。
悪いことをしてしまったけれども、よく懺悔することができる人はいいのであります。
懺悔の十の方法が説かれています。
一、明らかに因果の理法を信ずること、
二に強い怖畏の念を生ずるとと、
三に深く慙愧の心を起すこと、
四に罪を消滅する方法を求め学ぶこと、
五にすでに犯してしまった罪をつつみかくすことなく告白すること、
六にその頃からの心の持ち方をよく反省してそれを断ち切ること、
七に仏法を護るという決心を起すこと、
八に世のいっさいの人人をもすくおうとする大きな誓願を起すこと、
九には常に十方の仏を念ずること、
十には、仏の教にしたがって罪というものも本来は空なるものであると観ずることである。
と説かれています。
更に「もしこのような十法を成就したいと思えば、まず道場をととのえ、体のけがれを洗い流し、清潔な衣服に改め、香をたいたり花びらをまいたりして、仏の前に身も心も投げ出し、教えの通りに修習すること、一七日、二七日、三七日から七七日、あるいは一カ月から三力月にもいたり、乃至は、年歲を重ねても、一心に懺悔をつづけ、犯してしまつた重罪が滅したというあかしが得られたときに、そこではじめてそれを中止する。」
と丁寧に説かれています。
これらは関口真大先生の『天台小止観』(大東出版社)にある現代語訳を参照しました。
松居桃樓先生の『微笑む禅』には分かりやすく次のように説かれています。
「懺悔十法といって、十段階に分けて瞑想するんです。その十段階の瞑想とは、
第一は、明らかに因果の法則を信ずる。
第二は、罪のおそろしさを感じる。
第三は、犯した罪を深く愧じる。
第四は、罪ほろぼしの方法を工夫する。
第五は、昔の罪をかくさず告白する。
第六は、重ねてしないと決心する。
第七が、仏法を護ろうという心を起こす。
第八は、衆生済度の大誓願を起こす。
第九は、常に十方の仏を念ずる。
そして、最後の第十は、「罪性が無生を観ずる」というんですが、これは、窮極において、仏とまったく一致して、「元来、罪などというものは、どこにも存在しないんだ」ということを、はっきりと悟れ」
と説かれています。
手順を踏んでいくことが『天台小止観』らしく有り難いものです。
丁寧に懺悔しながら究極には罪などというものは存在しないと悟るのです。
罪などは存在しないという真理と、至心に懺悔するという二つが大事であります。
罪などはないというだけでは駄目ですし、懺悔するだけでも行きづまります。
このあたりも相反する両面が常にあることが肝要なのです。
些細なことでも戒にもとる行いがなかったか心から慙愧懺悔し、それと同時に罪などは空であり存在しないとみるのであります。
また罪などはないと悟りながらも至心に懺悔するのであります。
大らかさと綿密さが同時にあることにも通じます。
このあたりが仏道の妙味であります。
横田南嶺