食べること、寝ること
神奈川県南足柄市にございます。
そこに余語翠厳老師という方がいらっしゃいました。
青山俊董老師のお寺にお参りすると、この余語老師の書がよくかけられています。
青山老師も余語老師のことをとても尊敬されているとうかがえます。
私は直接お目にかかるご縁はなかったのですが、この老師の書物からは多くのことを学ばせてもらいました。
余語老師に『人間考えすぎるから不自由になる』という本があります。
その中にこんな言葉があります。
「「飢えきたれば食らい、困きたれば眠る」
これは臨済和尚の言葉だが、人間、これだけのものだというのです。
余計なことを考えすぎたら、碌なことはないわ。」
と説いています。
これは臨済禅師の言葉であります。
岩波文庫の『臨済録』にある現代語訳を参照しますと、
「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。」(岩波文庫『臨済録』50~51頁)というところです。
さらに余語老師は、こんな逸話を紹介されています。
「永平寺の住職をしていた北野元峰という人にも、似たような逸話があります。
あるとき、北野師が長野県のほうで、学校の先生方を前に話をすることになったのだそうです。
さんざん聴衆を待たせたあげく、北野師は、
「要するに人間というものは食って出すだけのものだ。そういうことを心得ていなさい」といって帰ってきてしまったというのです。
先生方はえらく腹を立てたようだが、北野師は、根本を見据えて生きることの大切さをいいたかったのでしょう。
それを聞いた先生方の一人が晩年になって、ああそうかなと思い当たることがあった、と述懐しています。」
という話であります。
私もこの話を初めて読んだときには、なんというひどい老師だと思ったものでした。
しかし、だんだんとこの話の深さが分かるようになってきました。
この頃は、生きるということは、食べて出して寝るだけのことですと話をしたりしています。
はじめ塾の和田重宏先生に『観を育てる 行きづまらない教育』(地湧社)という著書があります。
読んでいると「「寝る」ことと「食べる」こと」という一章がありました。
「塾の生活では、行きづまつてしまった人たちが、どのようにしたら自分を取り戻せるかということも、いろいろと工夫されています。
中でも、毎日の暮らしの積み重ねで「寝る、食ベる」ことをきちんきちんとやることが、一番の近道です。
健全な心身で暮らしている人は、「寝る」「食べる」ことをほとんど意識しないで暮らしています。
「寝なくちゃいけない」「食ベなくちゃいけない」とわざわざ意識しなくても、時間が来れば空腹を感じ、「おいしいな」と食べて満足をする。
ある時間が来れば眠くなって適度な睡眠をとり、目が覚めると同時に活力が湧いてきて、意欲的に働くことができる。
そうした生活の環境を用意してあげておくことが、十代の子どもたちを預かり寄宿塾を運営する者の役目です。
私たちの所にきた子どもたちは、基本的には「寝る、食べる、寝る、食べる」の繰り返し、それだけをやるんです。」
と書かれています。
これは我が意を得たりの思いであります。
もう少し読んでみましょう。
「「寝る、食べる」ことは簡単なようですが、行きづまつている人たちにとっては、これが実に大変なことのようです。
これをきちんとやることは、一人では絶対にできないし、家族に協カしてもらうのもとても難しいので、一時的に、そのことがしやすい私たちのような所に来るのです。
ですから「『はじめ塾』ってどういう所ですか」と尋ねられた時は、「寝ることと食べることをする所です」と言います。
これは、自分を取り戻す上での基本的なことです。」
と書かれています。
しっかり食べて出す、簡単なことのようですが、大事であります。
しっかり噛んで食べて、それが力になっていくのを感じます。
生きる原動力であります。
そして一日一度はいただいたものを排泄します。
そしてすっきりします。
よく寝るにはよくはたらくことが大事であります。
しっかり身体を動かすのです。
そうしましたら、夜になると疲れてぐっすり眠ります。
朝は、よく寝たなあと思って目が覚めて、思わず大きな伸びをします。
それだけで生きる活力が湧いてきます。
こんな毎日を送ることが基本であり、すべてでもあります。
それ以外に、何をしなければいけないと思い詰めてしまうと行きづまってしまうのでしょう。
それだけにしっかり動くことが大事です。
はじめ塾の子供たちが、かくれんぼにも力を惜しまず、全力で臨んでいるのもそうであります。
そうして全力で動いているからお昼ご飯のあと、寝る禅をしようとしたら、すっかりみんなが寝入ってしまいましたが、これが良いのであります。
力を出し惜しまずに動いてぐっすり眠る、子供たちは生きた禅そのものと言えましょう。
食べることはとても大事で、はじめ塾では食べること、そして食事を作ることも大事にされています。
『幸せをつかむ力 はじめ塾80年のキセキ』(日本評論社)という本があります。
はじめ塾についてよくまとめられた本です。
その中に、「台所は、はじめ塾の生活教育の中心である。」
と書かれています。
「料理の作り方を伝えるだけではなく、食生活の大切さ、ものの考え方、人との距離感、リーダーシップの取り方、企画力、自主性や協調性、勉強の仕方、社会情勢、どう生きるべきかという人生論も含め、さまざまなことが毎日の台所で伝えられていく。
はじめ塾では、子ともたちが朝昼夜の三食すベての料理を作る。」
と書かれています。
また「塩加減、水加減などは自分の舌で味を確かめて、おいしい味になるように調整する感覚を身につける。
だからはじめ塾では料理作りに計量カッブを使用しない。
暑い日には汗をかくので塩加減は少し濃いめに、風邪気味の子どもがいるときは身体の温まるものを出すとか、食べる人の体調や気温などに応じた繊細な気遣いで料理を作る。」
とも書かれています。
こういうところも「カン」を養成する訓練にもなっているのだと思います。
「食事のときに使う器は、本物の焼き物を日常的に使っている。
陶芸作家の高価な器を子どもがうつかり割ってしまうこともある。
でも、折に触れて器と道具の扱いについて話をしていると、自然と器や道具の扱いも丁寧になり、壞さなくなるという。」
と書かれています。
これも大事なことであります。
大勢の子供たちの食事ですと、壊れないようにプラスティックのものを使ったりしがちですが、手に触れるものでも人間は影響は受けていくように思います。
食べるという営みはおろそかにはできないのです。
そうしてみると、まさに臨済禅師の言われたように、食べて出して寝るというのは仏道の究極なのだとわかります。
横田南嶺