カンを育てる
坐禅について説明をしていると、和田重宏先生が後ろの方にソッと入ってみえました。
まるで気配を消しているかのようでした。
和田重宏先生は、はじめ塾の二代塾長で、今の和田正宏先生のお父様でいらっしゃいます。
しかし、まわりの方も特別な対応をなさるようでもありません。
ごく自然であります。
休憩の時間に挨拶をさせてもらいました。
今年八十歳を迎えられますが、お見受けしたところとてもお元気のようです。
今も引きこもりの人たちと毎日畑仕事をなさっているとのことであります。
和田重宏先生に『観を育てる 行きづまらない教育』(地湧社)という著書があります。
その中に「力の出し惜しみをしない」という一節がありました。
こういうことが書かれています。
「力の出し惜しみをすることほど、行きづまりをきたすことはありません。
例えば学校で授業を受けたり、掃除をする場面で共同作業をする時に、できるだけさぼっていた方が得をするというようなことが、子どもたちにも世の中にも蔓延しているではありませんか。
これは絕対に行きづまります。
自分はできるだけ力を出し惜しみして、出さないで済むなら出さないでいようという小賢しい態度で仕事をしていたら、行きづまつてしまいます。
本来の「生き物」という視点で人間を捉えたら、自分の能力を開発するには力を出し切った方がいいのです。
かけつこぐらいのことでも力を出し切ってトレーニングすればするほど、能力は開発されます。
生き物の能力というのは皆そういうものなのです。」
というのです。
まさに今回子供たちとかくれんぼをして、この「力の出し惜しみをしない」ということを実感しました。
どんなことにも全力なのです。
そのあとに、こんなことも書かれていました。
雨の中の草刈りの話です。
「この集落の道普請の日に、ひどい雨降りだったことがありました。
私たちの寮からも二人出なくてはなりませんでした。
この雨の中で、草を刈らなければならないなんて、大抵の子は嫌がりましたがその中で「僕やります」と言って勉強嫌いのいたずら坊主の子が、鎌を持ってどしゃ降りの雨の中へ出て行きました。
私も一緒に作業したのですが、汗なのか雨なのか全身ずぶ濡れになりながら、草刈りをしてきました。
寮では風呂を焚かせておいたのですが、やり切って帰ってきて風呂に浸かるのは、本当にいい気持ちです。」
とありました。
雨の中でも力を惜しまないのです。
この本には「その気になる」という章があります。
そこにはこんなことが書かれています。
「『はじめ塾』では雨が降ってきたからといって、行事は中止になりません。
野外活動では、晴れていい天気の時だけ行事を組むのが一般的でしょうが、暮らしの中では、雨の中でもやらなければならないことがたくさんあります。
どんな状況でもできるようにしておく取り組みが必要です。
雨が降ろうがなんだろうが、状況に即した対応をしながらできるだけ実行するのです。
雨の日には多くの親は「風邪を引くからやめなさい」と消極的なことを言って止めさせてしまいます。
しかし子どもはおもしろいもので、親が「やめなさい」と言うことを、塾でやろうと言うとすごく喜びます。
男の子も女の子もずぶ濡れになって、泥だらけになって、バスケットポールをしたりします。
これはシャッの一枚や二枚無駄にしても、驚くほどいい結果をもたらします。
勿論、遊んだ後に風呂に入れるように準備もしておきます。
最近の子どもたちは、がむしゃらに遊ぶ機会がなくなっていますから、こういう体験が貴重なものになるのだと思うのです。」
とありました。
先日の夏合宿の時でも、午前中は強い雨でしたが、午後から小雨になりました。
小雨になっていると、何人かの子供たちが庭で遊び始めました。
雨に濡れることなど全く気にしていないようです。
私は子供は元気だな、昨日から雨だったから外に出たいのだろうと思って眺めていました。
すると、和田正宏先生がこんなことを言ってくださいました。
雨が降り始めた頃、その雨には大気中のほこりなどがいっぱい含まれているので、そんな雨の間は、子供たちは雨に濡れることはしません、しばらく雨が降り続いて、大気中のほこりなどが落ちてしまった、きれいな水の雨になると、子供たちは雨の中で遊び出すというのです。
この言葉には驚きました。
私は恥ずかしながら、いつも雨には濡れないようにしていて、雨についてこんな観察をしたことがありません。
そこで私は、こういうことを先生は子供たちに教えていらっしゃるのですかと聞きました。
すると和田先生は、子供たちはこういうところで生活していると自然と感じるようになるのですと答えられました。
恐れ入りました。
いつも雨に濡れないように工夫ばかりしている自分が恥ずかしくなりました。
和田重宏先生の『観を育てる』には三つのカンについて次のように書かれています。
「一つ目は感じる「感」です。
これは0歳から三歳ぐらいまでに生活の様々な場面を通じて育ちます。
まだ言葉を持たない時期に、直接関っている人から受ける刺激を、感覚器官を通して「感じ」として身につけていきます。
一般的には「三つ子の魂百まで」と言われているようなものです。」
と感じる「感」について書かれています。
それから
「二つ目の「勘」はいわゆる動物的な「勘」です。
人間も動物ですから、本来備え持っているものですが、この「勘」は九歲前後までの間に育ちます。
子どもがこの時期になると、親はかなり教育意識を持つようになります。
動物は本能で子どもを育てますが、大脳が発達していろいろなことを考えてしまう人間は、わが子を他人と比較して焦ったり、過大な期待を寄せて教育しようといじくりまわしてしまいます。
この「勘」のような本来備わっているものは放っておけば自然に育つ能力だと思うのですが、最近では手を加えればそれだけ良い結果が得られるだろうと思って、「勘」を育てるよりも早い時期からの知的教育の方にウエイトが置かれてしまうために、「勘」が十分に育っていないのです。
これはもろい土台の上に立派なお屋敷を建てようとしているようなことですから、かなり大きな問題だと思います。」
と説かれています。
そして「三つ目の「観」は、観る「観」、観察する「観」の字を当てます。
観音樣の観は、どのような意味なのか分かりませんが、ここでは「見通しがきく」とか「先が読める」「周囲の状況が分かる」というような意味になります。
もつと分かりやすい表現としては「行きづまらない能力」と言えるのではないかと思います。この「観」は前述の二つのカンを補います。
これは、思春期の十四、五歲頃になって自分というものに目が向いてきて、「この自分とはいつたい何なのだろうか」という疑問を持ち始めることによつて、育っていくもののようです。
ですから、「観」が育つ時期は「何歲まで」ということはなく、それこそ死ぬまで育ち続けていくものだろうと思います。」
というのであります。
こういう三つの「カン」が育っているのだと実感させられるはじめ塾の子供たちであります。
横田南嶺