ビルシャナ
岩波書店の『仏教辞典』には「奈良大仏」として、
「正しくは東大寺金堂(こんどう)(大仏殿)に安置される東大寺の本尊で、華厳経の教主・盧舎那仏(毘盧遮那(びるしゃな))の坐像(銅造)をいう。
743年(天平15)聖武天皇が総国分寺の本尊として発願した大仏は、当初、近江(滋賀県)甲賀で着手されたが、まもなく現地に移して工を再開、頭体部を8層に分けて鋳造し、757年(天平宝字1)に鍍金が終了するまでおよそ11年の歳月を要した。
像高は現在の像とほぼ同じ16メートルであった。」
と解説されています。
同じく『仏教辞典』には「毘盧遮那」を
「サンスクリット語ヴァイローチャナの音写。
華厳経および大日経・金剛頂経その他の密教の教主としての仏の名前で、輝きわたるもの、の意味。」
であり、「日本密教では<光明遍照>と訳し、あるいは<大日(如来)>という。」と書かれています。
佐々木閑先生の『大乗仏教』(NHK出版新書)には、
「まず『華厳経』では、宇宙には様々なブッダが存在するが、それらは「毘盧遮那仏(盧舍那仏)」という一人のブッダにすべて収束されると考えました。
つまり、宇宙にはたくさんブッダが存在しているように見えるけれども、もとをたどればブッダは一人だと定義したのです。
字宙に散らばる無数のプッダと毘盧遮那仏の関係は、インターネットの世界にたとえると理解しやすいでしょう。
インターネットにはネットワークの中心というものがありません。
ネットワーク全体が一つの存在です。
これが毘盧遮那仏です。
各世界のプッダは毘盧遮那仏というネット本体の先にそれぞれ存在しています。
さらにそれぞれのブッダからまた別の世界のブッダが放射状につながり、無限のブッダ世界が宇宙に広がっています。
一見、個々のブッダ世界は独立しているように見えますが、すべてのブッダは毘盧遮那仏とつながっているため、毘盧遮那仏は個として存在していながらもすべてのネットワークを覆いつくす巨大な存在と見なすことができます。」
と解説されているのです。
どうもそれまでの仏様とはまた違った、大きなものであると言えます。
インターネットの譬えは現代ではとても分かりやすいものですが、当然昔にはありません。
佐々木先生は、
「もちろんインターネットのたとえ話などはありませんが、実際の『華厳経』では「一即多·多即一」(一は即ち多であり、多は即ち一である)という表現を使って、時空を超えた世界観を説明しています。
わかりやすく解說した部分としては「因陀羅網の譬喩」が有名でしょう。
因陀羅網とは「インドラの網」という意味です。
須弥山の頂上に住む帝釈天(インドラ神)の宮殿に設置された美しい網飾りのことを指します。
網の結び目の一つ一つには宝石の玉が取り付けられていて、それらの宝石の表面はほかの宝石を映し出しています。
ほかの宝石もさらに別の宝石を映し出すため、映り込みは無限に繰り返されることになります。
こうした一つの宝石が無限の宝石を映し出すと同時に、無限の宝石が一つに収まっている状態を「一即多、多即一」と『華厳経』は表現したのです。」
というのであります。
佐々木先生は東大寺の大仏にも言及されています。
「東大寺の大仏の正式名称は「盧舎那仏坐像」ですから、聖武天皇は当然、釈迦ではなく、宇宙全体を覆っている毘盧遮那仏こそが最も偉大な仏であると考えて、高さ十五メートルにも及ぶ世界最大の金銅仏坐像を造立し、その力に頼ろうとしたわけです。」
と書かれています。
円覚寺の佛殿にお祀りされているご本尊もまた毘盧遮那仏なのです。
円覚寺の毘盧遮那仏は、近年の研究によりまして、お顔の部分は創建された時のものであるとわかりました。
胴体は後に新たに作り直されたものでございます。
ただ円覚寺では後に宝冠釈迦如来と呼ばれるようになっています。
毘盧遮那というのは「光明遍照」と訳されます。
光が遍く照らすという意味です。
太陽にも例えられる仏様です。
これは禅の教えやあるいは密教の教えにも関わってくるものですが、すべては仏性が現れたものであると説くのです。
我々が修行して仏陀になるのではなくして、仏性が姿を現したのがこの世界であり、この世界がまるごと仏様であるという教えであります。
仏の世界は遠くにあって、修行して遠く彼方に行くのではなくして、ここがそのまま仏陀の世界であり、我々が仏陀の現れである、というのです。
これが華厳の「仏性現起」という教えであります。
これがもとになりましたから、我々の禅ではこの心の働きや我々の日常の暮らし、即ち何も特別なことをするわけではなく、畑を耕したり掃除をしたりという、この日常の営みも全部仏の現れであると説いています。
それで即心是仏あるいは平常心是道という、禅の教えとして具体的に現れているのであります。
禅の教えは『涅槃経』や『華厳経』が大きな根本になっております。
そういった、皆仏様の中という世界、皆仏の現れであるという教えが華厳にございます。
そこから「怨親平等」という教えも出てまいります。
それはまさに仏教における慈悲の実践の一つで、私たちが「怨みを持つ者(怨)」も「親しい者(親)」も、隔てなく慈しむという教えです。
鎌田茂雄先生の『華厳の思想』(講談社学術文庫)には
「『華厳経』では仏が毘盧舎那仏である。毘盧舎那というのはヴァイローチャナというサンスクリットを音でうつしたのだが、ふつうは「光明遍照」と訳す。
無限の光が遍く照らしだしているもの、その主体が仏であり、光明そのものを言っている。
たとえば、太陽のようなものを連想すればよいと思う。太陽の光はえり好みをしない。
地球上のこの国は気に入らないから少し量を出し、こちらの国はたくさん光を与えようなどとは考えない、ただ与えるだけである。
金持ちにはたくさんやろう、貧乏人には少し光らせようということもしない。それは本当の意味の平等に与えているのである。
そういう意味で、太陽の光明のようなものを考えればいいと思う。」
と解説されています。
「『涅槃経』や『法華経』は現実性のほうにウエイトをおく。
現実性におくと、いまは凡夫であるから仏性は隠されているけれども、しかし、それを修行によってあらわしていかなくてはならない、とこうなる。
ところが『華厳経』は本来性に重点をおくので、一切は仏性のあらわれとして輝いており、そこには悪とか迷いというものはないという。」
とも説かれています。
敵も味方も同じという怨親平等の思想も。このような華厳の教えに基づいているとも言えます。
横田南嶺