法界定印のご縁
もう四月のことであります。
その折り、終わりの質疑応答の時間で、横須賀の満願寺の永井宗直和尚から質問がありました。
それは法界定印についての質問でありました。
法界定印とは坐禅の際に組む手の形の一つで、右手を下にして左手を上に重ね、両手の親指の先を軽く触れ合わせるものです。
これも右が上になるように教える場合もあるようです。
『坐禅儀』には、左の掌が上になるように書かれています。
臨済宗の場合は、手を単に組み合わせる場合も多いのです。
円覚寺では法界定印を組んで坐ります。
私も円覚寺に来るまでは、手を組んで坐っていました。
はじめの頃は法界定印には慣れなかったものです。
それでも何年もやっていると慣れてくるものです。
慣れては来たものの、なぜこのような形にする必要があるのかは、なかなか謎でありました。
それが、最近になってようやくこの形の意味が分かってきたのでした。
実に洗練された素晴らしい形なのです。
それをその質疑応答の時に伝えようとするととても時間が足りません。
法界定印だけでも小一時間もかかるものです。
それでその場では簡単な答えしかできませんでした。
質問してくださった永井さんには、きちんとお伝えしたいとずっと思っていたのでした。
ところが、この頃は諸行事が立て込んで、なかなか横須賀の満願寺様まで出かける日が取れません。
ようやく八月になっておうかがいすることができました。
満願寺様におうかがいして、二時間ばかり、法界定印をはじめ、合掌や叉手について、それからイスの坐り方について講習をさせてもらいました。
永井さんは、私よりも一歳年上で年齢も近いのでいつも親しくさせてもらっています。
京都の天龍寺で平田精耕老師について修行された方です。
建長寺派の教学部長もお務めになっていました。
久しぶりにいろいろお話もさせてもらいました。
満願寺様は、建長寺派のお寺であります。
横浜横須賀道路の佐原インターチェンジで降りたところにあります。
この佐原というのは、三浦氏の本拠・相模国衣笠城の東南にあった佐原城に因みます。
佐原城は、相模国の豪族三浦義明の子、佐原義連の居城だったと伝わります。
この佐原義連が開いたのが満願寺と言われています。
三浦義明は『広辞苑』に
「平安末期の武将。三浦大介と称す。源頼朝の石橋山の挙兵に一族を参加させたが、平氏の追討軍畠山重忠と衣笠城に戦って敗死。(1092~1180)」
と解説されています。
衣笠城は三浦氏の城です。
源頼朝が伊豆で打倒平家を掲げて挙兵すると、三浦義明の子、三浦義澄は頼朝を支援しましたが、頼朝は石橋山の戦いに敗れてしまいます。
頼朝軍と合流できずに引き返した義澄ら三浦一族は平家方の畠山重忠軍と衣笠城合戦に及び衣笠城は落城ました。
そこで三浦義明は討ち死にし、三浦一族は安房国に逃れたのでした。
その後鎌倉幕府が成立するとこの城はまた三浦氏の本拠となったのです。
三浦氏に縁が深いのが円覚寺の塔頭壽徳庵であります。
壽徳庵様には、三浦道寸一族のお墓があります。
三浦道寸は、三浦義同(みうらよしあつ)で、
『広辞苑』には、
「戦国初期の武将。
瑞雲庵道寸と号す。
1512年(永正9)伊勢盛時(北条早雲)に相模岡崎城を囲まれて敗北。
新井城に籠もって3年にわたり抗戦したが落城、自刃。」
と解説されています。
新井城は、今の神奈川県三浦市三崎町小網代にありました。
三方を海に面した天然の要害であり、三浦水軍の軍事力を背景に持っていて、その守りは堅固でありました。
三浦父子は伊勢軍の攻撃を三年間に渡って凌いでいました。
永正十三年(1516年)には、新井城はついに落城し、義同ら三浦一族は家臣ともども討ち死にしました。
落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって港一面が血に染まり、油を流したような様になったことから、ここを油壺と呼ぶようになったと聞いています。
私もかつて修行時代には、この三浦の油壺のあたりも托鉢をしたものです。
小網代の穏やかな海を見ながら、かつてはここが血に染まったのだと思いをはせたものです。
満願寺様は、最近では、
「建久五年(1194年)9月25日源頼朝が三浦郡矢部郷に一堂を建立する…
三浦一族、三浦義明を追善するための法要堂こそ満願寺であった。」
という説がございます。
「境内からは浄土庭園と大型礎石建物の遺構、永福寺で使われていたのと同型の瓦が検出されており、浄土庭園に臨む堂に周丈六の阿弥陀坐像と周八尺の菩薩立像が鎮座していた。
よって、満願寺は佐原義連の創建とされていたが、その壮大な規模からして、鎌倉幕府直轄の造営寺院であったと推察されている。」
と満願寺様のホームページには書かれています。
満願寺様に訪れた日にも、今年の春に改修工事が完成した収蔵庫を拝観させていただきました。
このお寺には、とても素晴らしい観音菩薩・地蔵菩薩・不動明王・毘沙門天の像があります。
観音様とお地蔵様は、国の重要文化財であります。
観音様は高さが226.3cmもある、見上げるほどの素晴らしいお像です。
寺伝によると、佐原義連が平家追討に西国へ赴く時、仏師運慶に造らせたものと言います。
この大きな素晴らしい仏像を拝むと、もともとは鎌倉幕府直轄の大寺院であったという説が肯えるのであります。
法界定印については、手首や指の関節をほぐす手のワークから始まり、合掌や叉手を通して法界定印へと実習しました。
法界定印の形をじっくりと説明させてもらいました。
他にも割り箸を使った股関節の引き込みや、手ぬぐいを使った座り方なども紹介しました。
永井和尚もとても喜んでくれました。
こちらも一緒に手をほぐし、ゆったりと坐ることができました。
素晴らしい鎌倉時代のお仏像も拝ませていただき、至福のひとときでありました。
法界定印についてご下問いただいたのがご縁で、有り難い一日となりました。
横田南嶺