怨親平等
先日紹介した禅語は、「怨親平等」であります。
怨親平等とは『広辞苑』に、
「敵・味方の差別なく、平等に慈悲の心で接すること。」
と解説されています。
中村元先生の『仏教語大辞典』(東京書籍)には
「敵も味方もともに平等であるという立場から、敵味方の幽魂を弔うこと。
仏教は大慈悲を本とするから、我を害する怨敵も憎むベきでなく、我を愛する親しい者にも執着してはならず、平等にこれらを愛憐する心をもつベきことをいう。
日本では戦闘による敵味方一切の人畜の犠牲者を供養する碑を建てるなど、敵味方一視同仁の意味で使用される。」
と解説されています。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「戦場などで死んだ敵味方の死者の霊を供養し、恩讐を超えて平等に極楽往生させること」とあります。
一般に手に取りやすい二つの仏教辞典を見てみますと、戦いの後で敵も味方も同じように供養することというふうに捉えています。
岩波の『仏教辞典』には更に詳しく書かれています。
「中世の戦乱が多数の死者を生み、その霊が弔われないままに放置されたのを念仏によって救済した鎮魂行為で、特に時宗(じしゅう)僧の活躍が知られている。ちなみに、神奈川県藤沢市の時宗の総本山清浄光寺の境内には、応永23年(1416)から24年にかけての前関東管領上杉氏憲と鎌倉公方足利持氏の合戦の戦没者を供養した応永25年建立の敵御方(みかた)供養塔(怨親平等碑)が現存し、その碑文には、戦火で落命した敵味方の人畜の往生浄土を祈願し、碑の前で僧俗が十念を称名すべきことを刻んでいる。」
と書かれています。
鎌倉公方というのは、都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官です。
足利尊氏の四男、足利基氏の子孫が世襲しています。
その鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置されました。
足利持氏は第四代の鎌倉公方であります。
関東管領は、鎌倉公方を補佐し、政務と軍務を実質的に支える存在でした。
この職を世襲したのが上杉氏であります。
上杉氏憲が管領職にありましたが、持氏との仲が悪くなってしまい更迭されてしまいました。
氏憲は謀反を起こしたのでした。
氏憲の出家した名が禅秀と言いますので禅秀の乱とも呼ばれています。
応永23年(1416年)のことでした。
敗れた氏憲は自害しました。
藤沢の遊行寺には敵御方供養碑が残されています。
これはこの乱によって両方に死傷者が多く出たので、一山の僧と近在の人々と共に敵味方両軍の傷ついた人たちを収容して治療を行い、戦没者を敵味方の区別なく平等に供養し、供養塔を建立したのでした。
更に『仏教辞典』には、
「死者への慈悲に加えて、死霊の御霊(ごりょう)化を恐れ、念仏による慰霊をはかったものと解されている。」
とも書かれています。
敵味方を共に供養するのには、敵が怨霊となって苦しめられるのを怖れたからという一面もあります。
それから
「さらに文永・弘安の役の蒙古軍撃退ののちに敵味方の霊を弔ったことは、民族や国の対立を超えることを意味し、島原の乱のあとで敵(切支丹(きりしたん))味方の霊を弔ったのは、宗教の相違をも超えることをめざしていたわけである。
とも書かれています。
「文永・弘安の役の蒙古軍撃退ののちに敵味方の霊を弔った」のは、実に円覚寺のことであります。
よく一般には、弘安四年に弘安の役が終わり、多くの兵士達が亡くなったので、明くる弘安五年、敵味方の御霊を共に供養するために円覚寺が開かれたと言われることがあります。
実際には円覚寺ほどの大寺院が、弘安四年に戦いが終わってわずか一年で建立するというのは難しいので、弘安の役以前から北条時宗公によって寺の建立が進んでいたのです。
そして弘安の役が終わったので、戦没者の供養をしました。
その折りに無学祖元禅師は、
「此軍及び他軍、戰死と溺水と、萬衆無歸の魂、唯願わくは速かに救拔して、皆苦海を超ゆることを得、法界了に差無く、怨親悉く平等ならんことを。」
という法語を唱えられました。
こちらもあちらも敵も味方も同じく供養したのでした。
先日比叡山を訪れた折にも「元亀の兵乱殉難者鎮魂塚について」という看板を見つけました。
「元亀の兵乱」とは織田信長の叡山焼討ちのことです。
元亀二年(一五七一)九月十二日、織田信長の軍は、坂本(比叡山東麓)の街を手始めに日吉山王二十一社すべてを焼き払いました。
次いで比叡山を目指し根本中堂以下三塔十六谷の堂塔、僧坊五〇〇を三日三晩かけてすべて焼き尽くしたのです。
僧俗あわせて二千余名が亡くなっています。
その供養のために塚を築いているのです。
そのあとに看板には次のように書かれていました。
「なおまた攻め込んだ信長軍の戦没者の霊に対しても十年後に同じく本能寺で火に焼かれた信長その人の霊にも恩讐を超え、怨親平等の心をもって追善供養を施すものである。」
というのであります。
これもまた怨親平等の心であります。
仏典で「怨親平等」の言葉が見えるのは、まず『大智度論』です。
サンスクリットにまでさかのぼることのできる用例としては『ブッダチャリタ(仏所行讃)』です。
『華厳経』のなかにもありますし、『心地観経』にも出てまいります。
敵味方を区別せずに、亡くなったすべての命を平等に弔おうという怨親平等の心が、円覚寺のはじまりにあったのです。
横田南嶺