真民詩の一日
八月はお盆の月だったので、お盆にまつわる詩を紹介しました。
真民先生の詩には、いろんな側面があります。
まるで禅の修行僧のように自らを厳しく見つめて妥協せずにひとすじに道を求めてゆく詩もあります。
それから野の花を詠った詩もたくさんあります。
晩年には大宇宙大和楽という心境に達しましたので、極めて高い心境を詠った宗教的な詩もあります。
そして、穏やかな家族を詠った、ほのぼのするような詩もございます。
ごきげんラジオで紹介した三つの詩は次の詩であります。
霊迎え
麻(お)がらをたいてみ霊を迎える
三人の子供たちが言う
おばあちゃん
もうきたろうかね
あのおつきさんといっしょにきたね
見ればほんとに雨後の空に
ほんのりかがやくやさしい三日月
提灯にあかりをともし
お線香をあげ
お菓子 ぶどう すいか うり とまと
とうきびなど
皿にいっぱいもり
まんじゅうなど一緒に食べ
手を合わせる
一雨降ったあと
涼しい風が吹いて
今夜はほんとにいい晩だ
つくしこいし
きょうはお盆
一日こころしずかに
妻にも子にも温かい心で接し
人をうらまず人を傷つけず
父をおもい母をおもい
仏陀につながるありがたさに満ちて
草にも木にも水をやり
鶏(とり)にもおいしいものを食べさせて
もろもろの恩に感謝しよう
朝から筑紫恋しの蝉が鳴き
ふるさとのことが
しきりに偲ばれてならない
お盆
亡くなった人たちに会える日を
作って下さった
釈迦牟尼世尊に
心からお礼を申し上げよう
そして亡くなった人たちが
喜んで来て下さる
楽しいお盆にしよう
せっかく来て下さった方々を
悲しませたり
落胆させたり
もう来ないことにしようなど
思わせたりしない
心あたたかいお盆にしよう
迎え火のうれしさ
送り火のさびしさ
そうした人間本然の心のかえって
守られて生きる
ありがたさを知ろう
「霊迎え」とは、盂蘭盆の初めに精霊を迎えることを言います。
お盆をお迎えするのに、精霊棚を設けます。
そこにいろんなお供えものをします。
提灯にあかりをともし
お線香をあげ
お菓子 ぶどう すいか うり とまと
とうきびなど
皿にいっぱいもり
まんじゅうなど一緒に食べ
手を合わせる
という詩を読むと、光景が思い浮かびます、
おまんじゅうをお供えして一緒にいただくというのも良い光景です。
おばあちゃん
もうきたろうかね
あのおつきさんといっしょにきたね
という会話も心温まります。
おばあちゃんというのは真民先生のお母様であります。
つくしこいしは、つくつくぼうしという蝉のことであります。
筑紫というのは、九州の北部を指しますが、九州一般をいう場合もあったようです。
ふるさとの筑紫を恋しいと思いながらつくつくぼうしを聞いていたとも言われますが諸説あるようです。
真民先生も九州熊本のお生まれですのでひょっとしたらふるさと九州を懐かしんでいたのかもしれません。
一日こころしずかに
妻にも子にも温かい心で接し
人をうらまず人を傷つけず
父をおもい母をおもい
仏陀につながるありがたさに満ちて
草にも木にも水をやり
鶏(とり)にもおいしいものを食べさせて
もろもろの恩に感謝しよう
という一節はお盆の心をよく表しています。
餓鬼道に落ちて苦しんでいた母を救うのがお盆の由来です。
餓鬼の心を救うのは施しの心であります。
お盆は国民の休日に指定されているわけではありませんが、お休みになる会社が多く、帰省ラッシュがございます。
両親が健在であれば、お盆にはふるさとに帰って元気な姿を見てもらいます。
お亡くなりになっていれはご供養をします。
そして草や木にも慈しみの心をもってお水をやり、鷄にも良いものをあげるというのです。
そして亡くなった人たちが
喜んで来て下さる
楽しいお盆にしよう
せっかく来て下さった方々を
悲しませたり
落胆させたり
もう来ないことにしようなど
思わせたりしない
心あたたかいお盆にしよう
という一節には考えさせられます。
とくに八月の十五日お盆は、終戦記念日でもあります。
国の為に命をなげうって戦ってくださった方々に、悲しませるようなことになっていないかと反省します。
迎え火のうれしさ
送り火のさびしさ
という表現にも心打たれます。
そんな心を、キュウリや茄子で牛や馬を作って表したのです。
御霊がこちらに帰ってきてくれる時には、少しでも早くとキュウリを馬に見立ててお供えします。
あちらの世界に戻って行く時には、少しもでゆっくりと牛に見立てた茄子をお供えするのです。
そうした人間本然の心のかえって
守られて生きる
ありがたさを知ろう
というように、人間が本来持って生まれたやさしい心であります。
ご先祖に守られて、お互い一日一日を生きていられるのであります。
そんなお盆の真民詩を紹介してお話したのでした。
午後からは未来連福プロジェクトの法話を務めていました。
未来連福プロジェクトとは、震災以来毎年、原発事故の被害を受けた福島県の方々を鎌倉に招待して、鎌倉の寺社にお参りしてもらってゆったりとした時間を過ごしてもらうのです。
毎年円覚寺にもお参りいただいて、法話をさせてもらっています。
今年は福島県の双葉町の皆さんでした。
この法話では毎年坂村真民先生の詩を紹介して話をしています。
今回も代表作の「念ずれば花ひらく」と「二度とない人生だから」の詩に、「バスのなかで」という三つの詩を紹介して話をしました。
念ずれば花ひらく
念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうして
そのたび
わたしの花が
ふしぎと
ひとつ
ひとつ
ひらいていった
バスのなかで
この地球は
一万年後
どうなるかわからない
いや明日
どうなるかわからない
そのような思いで
こみあうバスに乗っていると
一人の少女が
きれいな花を
自分よりも大事そうに
高々とさしあげて
乗り込んできた
その時
わたしは思った
ああこれでよいのだ
たとい明日
地球がどうなろうと
このような愛こそ
人の世の美しさなのだ
たとえ核戦争で
この地球が破壊されようと
そのぎりぎりの時まで
こうした愛を
失わずにゆこうと
涙ぐましいまで
清められるものを感じた
いい匂いを放つ
まっ白い花であった
二度とない人生だから
二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛を
そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳を
かたむけてゆこう
二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう
二度とない人生だから
一ぺんでも多く
便りをしよう
返事は必ず
書くことにしよう
二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう
二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう
二度とない人生だから
のぼる日 しずむ日
まるい月 かけてゆく月
四季それぞれの
星々の光にふれて
わがこころを
あらいきよめてゆこう
二度とない人生だから
戦争のない世の
実現に努力し
そういう詩を
一遍でも多く
作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる
若い人たちのために
この大願を
書きつづけてゆこう
という三つの詩であります。
この三つの詩を読むと、改めて真民先生の深い慈愛の心が身にしみてきます。
真民詩を読んで学ぶ一日となったのでした。
横田南嶺