数字にまつわる話
その前の日が念法眞教の百年祭があったので、夜遅くに鎌倉に帰りました。
それでも翌朝はいつもの午前三時には目が覚めますので、五体投地百八回を行い、いつものようにお勤めしていました。
ラジオでも村上さんが、どんなに夜遅くても三時に目が覚めるのですかと聞かれましたので、「目が覚めるというのではなく、身体の全細胞が目覚めるのです」とお答えしました。
実際にそんな感覚であります。
夜遅い新幹線で帰り、寺に戻ったのは十一時を過ぎていましたが、朝は三時であります。
今回は、数字にまつわるエピソードというのが、テーマとなっていました。
縁起のいい数字であるとか、ラッキーナンバーなどというもの、何周年などという数字にまつわる話であります。
お便りには、いろんな方が数字にまつわる話をしてくださっていました。
私はというと、数字には全くこだわりがないのです。
何番などというのは、仮につけた符号に過ぎないと思って、その時その時の気持ちで暮らしています。
仏教に数字にまつわる話はありますかと問われました。
「六」という数字がよく出るように思われますがと問われました。
たしかに六道とか六波羅蜜という言葉があります。
六道は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界です。
この六つの世界を輪廻するので、六道輪廻と言います。
六波羅蜜とは、施すこと、決まりを守ること、耐え忍ぶこと、勤め励むこと、心を静めること、正しく物事を見ることの六つであります。
京都には六波羅蜜寺というお寺もあります。
六波羅探題などいう言葉も歴史に出てきます。
しかし、決して六だけではありません。
「八」もよく出てまいります。
仏教徒として大事な八正道というのがあります。
正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい精神統一の八つであります。
それから『法華経』が八巻よりできていて、八軸の妙文などとも言われます。
そうしてみると、それぞれの数字にも縁があるものです。
まず一は、一心の一であります。
一心戒というのもあります。
二は「二諦」があります。
二種の真理をいいます。
勝義諦と世俗諦という二つの真理をさします。
勝義は最高の意味、対象あるいは目的の意で、第一義とも訳します。
これに対して世俗は、一般に認められた意見や慣習を意味します。
最高の真理と世俗の真理です。
三はなんといっても三宝の三であります。
仏法僧の三つは、仏教徒がみなよりどころとするものです。
仏様と、仏様の説かれた教えと、サンガという教えを学ぶ教団の三つをよりどころとするのです。
三法印というもあります。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つの真理であります。
四はなんといっても四諦であります。
これは四つの真理であります。
世は苦しみであること、苦しみの原因は渇愛であること、苦しみの死滅、そして苦しみの滅に到る道の四つであります。
それから三法印に一切皆苦を加えると四法印となります。
その他にも四天王、四法界などがあります。
五は五戒があります。
生き物の命をあやめない、人のものを盗み取ることをしない、嘘偽りを言わない、男女の道を守る、お酒を飲まないの五つであります。
それから五力というのもあります。
信仰、精進、念、禅定、智慧の五つであります。
六は六波羅蜜、六道などです。
七はというと、七覚支があります。
これまでのおのれの言行を注意深く思い起こすのが念、それらを正しい智慧によってよく思量するのが択法、怠ることなく励むのが精進、心に喜びが生じるのが喜、喜ぶことによって身体が軽やかになるのが軽安、それにより心が安らかになり統一されるのが定、あらゆる感情を離れた平等な態度が達成されるのが捨です。
八は八正道などです。
九は九相図というのがあります。
人が亡くなって、その死骸が変化してゆく様子を九つに分けて説いたものです。
十は十波羅蜜があります。
六波羅蜜に、方便・願・力・智の四波羅蜜を加えたものです。
十戒や十善戒もあります。
十界というのは六道に、声聞、縁覚、菩薩、仏を加えたものです。
というようにどの数にもそれぞれ縁があるものです。
ということはどの数字にとらわれることはないのです。
村上さんはコロナ禍以来、数字にとらわれすぎではないかと仰っていました。
患者の数など毎日報道されていたことを思い出します。
血圧なども測ることも大事ですが、あまり数字にこだわってもどうかという気もします。
数字を使わないで暮らすことはできませんので、数字を用いながら、数字にとらわれない、こだわらないのがよろしいかと思います。
イチロー選手がアメリカメジャーリーグで三千本の安打を達成したときに、ここがゴールではなく、あくまで通過点ですと言われたそうです。
選手にしてみれば一打一打精一杯打つのだと思います。
それが三千本にもなって注目されたのであります。
今年は戦後八十年と言われます。
まわりをみても戦争経験者にあう事が少なくなりました。
ラジオの生放送でも村上さんにしても、七十代ですので戦後のお生まれであります。
それでも私などはまだ幼い頃には、生家のすぐそばに防空壕が残っていたのを思い出しました。
廃墟となった屋敷跡に残っていたのでした。
大きな神社や人の集まるところでは、まだ傷痍軍人さんの姿も見かけたものでした。
白い服を着て、路上に坐っておられました。
中国残留日本人孤児について、一九八〇年代には大きく報道されていました。
残留日本人孤児とは、戦争の末期から終戦にかけて、旧満州(中国東北部)に取り残され、中国の方に養育されていた日本人の子供達です。
一九八一年に残留孤児の肉親探しを目的とした日本政府による訪日調査の派遣が始まったのでした。
テレビや新聞で肉親との再会シーンが繰り返し報道されていました。
それも、いつしかもう見ることはなくってしまいました。
八十年経ったということは実際に体験した人の数が極めて減ってしまったことを意味します。
それだけに戦争の体験をされた方の話をしっかり受けとめておくことが大事だと話をしたのでした。
それから法話ではお盆の話をしました。
そして禅語の紹介では怨親平等ということについて話をして、最後に坂村真民先生の詩ではお盆にまつわるを詩を三つ紹介して終わったのでありました。
ラジオの生放送も九回を数えました。
村上さんが上手に司会進行をしてくださいますので、安心して楽しく進めることができるようになりました。
横田南嶺