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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.08.06
今日の言葉

第二の矢を受けない

花園大学での政道徳門老師のご講義では、『臨済録』の「嫌う底の法なし」という言葉を深く掘り下げてお話くださいました。『臨済録』には、この「嫌う底の法なし」という言葉は三回出てきます。

先日のご講義で取り上げてくださったところを、政道老師の現代語訳で引用します。

「ただ諸君という、わが目前で說法に聴き入っている人たちこそは、火に入つても焼けず、水に入つても溺れず、地獄に入っても花園に遊ぶが如く、餓鬼道·畜生道に入っても苦しみを受けることがない。

なにゆえか?(智慧のまなざしには)厭うベき法というものがないからである。

きみたちが聖を慕って俗を憎むなら、生死の苦海に浮き沈みを繰り返すほかはないだろう。

煩悩(煩いや悩み)は外に求める心によつて起こるもの。

外に求める心が無くなれば、きみたちを拘束するような煩悩は起こらぬ。

わざわざ分别をはたらかせて虚妄の相を求めなければ、立ちどころにおのずから道を得るのだ。」

というのであります。

政道老師は、先日のご講義で、『臨済録』の言葉は、臨済禅師が眼の前の修行僧たちに示された説法だと仰いました。

その通りなのです。

当時いろんなお寺を行脚して真実を求める修行僧たちに向けて説かれたものです。

政道老師は、臨済禅師のお説法には、修行僧たちをその気にさせたいという慈しみが見えると仰せになっていました。

臨済禅師はとても上手な方法で修行僧を導いていく人であるというのです。

それはまず修行僧を肯定することが多いということを指摘されていました。

まず修行僧たちを肯定することから始めるのです。

あなたたちこそが仏様に他ならないのだと言って始まるのです。

こういう表現が『臨済録』の中には何度も出てきます。

そう言われると、言われた方は気分良くなるものです。

「私なんかもそうですけど、なれるかもしれんなとその気になっていく」と政道老師も仰せになっていました。

当時あの多くの修行僧たちが、良い師匠に出会いたいと願って、中国の国中をうろうろ行脚していたのです。

その結果、臨済禅師のところに来るわけです。

修行僧たちはみな迷っています。

そんな修行僧たちに対して臨済禅師は、うろうろしなくてもいい、もともとあなた自身に素晴らしいものが備わってるんだと示してくださっているのです。

そのことを言い聞かせてくれているのです。

臨済禅師は、修行僧を凡夫として見ていないんのですよと政道老師は示してくださいました。

『臨済録』には、外に求むることなかれという言葉が何度も出てきます。

何故、凡夫が外に求める心を起こすのかというと、いつも現状に不満足だからだというのです。

いつも不満足だから落ち着かないのです。

今の状態に安心しないのです。

この現実を離れて我々は概念の世界を作り上げています。

自分が機嫌よくなる世界を作り続けるのです。

いつも機嫌よくいたいから、現実を嫌って、概念の世界に生きようとしてしまいます。

思考の奴隷になってしまいます。

我々凡夫は分別します。

分別した途端、選択して、そこから迷いが生じ、比較から苦しみが生じます。

我々がこの智慧のまなざしで世界を照らして分別を離れることができたならば、選択や比較がない世界が現れます。

それはまさに嫌う底の法なしの世界です。

ところが煩悩に覆われてしまっているのが現状なのです。

煩悩は、貪瞋癡の三毒がおおもとであります。

むさぼりは、自分にとって好ましいものを取り込む働きです。

瞋恚は怒りです。

自分にとって好ましくないものを排除することです。

愚癡というのは無知無明です。真理に暗いこと。我々が物事の実相、ありのままを見ようとしないことです。

私たちは残念ながらこの貪瞋癡で動かされています。

日常の我々がやっていることというのは欲と怒りに突き動かされて、いつも現状に不満を持ち、それで実相を離れ、現実を離れて概念の世界を求めようとするのです。

虚妄の相を求めようとしています。

そして政道老師は、雑阿含経巻十七にある「箭経」を意訳して示してくださいました。

「凡夫も仏弟子も共に人間である以上、起こった物事に対して、快く感じたり(楽受)、不快に感じたり(苦受)、また何の感慨もなく無関心でいたり(不苦不楽受)しています。

その時に凡夫は、二種類の『受』を感じてしまうのです。

それは例えるなら、第一の矢を受けた後に、さらに第二の矢をも受けてしまうようなものです。

例えば、快い感覚を受けた時に、好ましいという思いが生まれます。

凡夫はそれに執着するが故に『貪り』という煩悩にとらわれて、逃れることが出来なくなります。

例えばまた、不快な感覚を受けた時には、嫌悪感が生まれます。

ここで凡夫はそれを憎み、また排除しようとする心を起こします。

それ故に、激しく憎しみ怨む、『瞋り』という煩悩にとらわれて、逃れることが出来なくなります。

例えばまた、興味が持てないものに対しては無関心となります。

その時、自らの関心事のみに心が奪われ、視野が狭まります。

それ故に、物事をあるがままに見て知ることができない、痴かさという煩悩にとらわれて、逃れることが出来なくなります。

ところが一方、仏弟子は、ただ一つ、最初の『受』を感じるだけなのです。

それは例えるなら、第一の矢を受けても、第二の矢を受けないようなものです。

例えば、快い感覚を受けた時に、仏弟子にも好ましいという思いが生まれます。

しかし、その快感に醉いしれることがありません。

それ故に、『貪り』という煩悩に染まることがないのです。

例えばまた、不快な感覚を受けた時には、仏弟子にも嫌悪感が生まれます。

しかし、その嫌悪感に振り回されることがありません。

それ故に、『瞋り』の煩悩に染まることがないのです。

例えばまた、仏弟子にも興味が持てないものがありますが、その心が鏡のように浄らかな為、興味が持てるものに対しても持てないものに対しても平等に気がついています。視野が広いのです。

それ故に『痴かさ』の煩悩に染まることはありません。

仏弟子が第二の矢を受けないとは、こういうことなのです」

という教えであります。

ところが人間は、自分の思うようにならないことがあると、すぐに人のせいにします。

環境が悪いとか、学校が悪いとか、暑い寒いが悪いとか言うのです。

そういう思考でいる限りこの第二の矢は絶対に抜けません。

第二の矢が抜けないということは、苦しみ続けるということになります。

お互いどんな道を選んでも第一の矢は刺さるのはもちろんのこと、第二の矢も刺さります。

それを抜こうとすることが、人間が成長するチャンスなんだと政道老師は説いてくださいました。

智慧のまなざしによって成長することができるのです。

智慧のまなざしに肥料をやることが大事だと説かれていました。

智慧のまなざしに肥料をやり水をあげて大きな木に育てていくのです。

毎日坐禅して呼吸を見つめながら智慧のまなざしの木を育てていくのです。

最初は本当に小さな苗でしかなかった智慧の木に水をやって、肥料をやって、ずっと育て続けていってくださいとお話くださっていました。

臨済禅師の「嫌う底の法なし」という真理をお示しくださり、更に実際には修行の心構えとしてお釈迦様の「第二の矢を受けない」という教えを示してくださったのでした。

有り難いご講義でありました。

 
横田南嶺

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