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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.07.31
今日の言葉

AIの時代をどう生きるか

花園大学の特別教授である仏教学者の佐々木閑先生と、そのご子息であり数学者である佐々木斎生先生にお越しいただいて、仏教とAIについて勉強会を開きました。
昨年の九月に続いて第二回目であります。

昨年同様に藤田一照さんもご参加されました。

また今回初めて野沢龍雲寺の細川晋輔さんもご参加されました。

午後1時から四時半までという長時間の講座でありました。

「AIに見る未来のコミュニティ像 AIという鏡」と題しての講座であります。

専ら佐々木斎生先生が講義をされるのですが、時々佐々木閑先生が質問や補足をしてくださいます。

今回の内容は四つに分かれています。

はじめに昨年の九月からこの十ヶ月でAIがどれくらい進歩したのかということです。

それから二番目にアテンションから学ぶ「概念」の本質。

三番目はAIと共に学ぶ未来と題してグループワークを行いました。

そして四番目に、AIに見る未来のコミュニティ像というテーマでした。

はじめに昨年の九月のこの講座を開いた頃、まだAIは、中学生の数学、算数なんかでもちょっと間違えてしまうようなレベルだったというのです。

それが今や、国際数学オリンピックで金メダルを取るようなレベルになっているというのです。

昨年の円覚寺で講座を開いたその晩に、大きな進歩があったのだという話でありました。

もうこのあたりの話で、私などの理解をはるかに超えてしまっています。

ただただすごい進歩なのだと思うばかりです。

それから人間の理解ということについて深く考察されました。

「理解とは何か、人間の理解なんて大したものではないのではないか」と仰っていました。

アテンションというのはなかなか難しい理論でありました。

アテンションというのは、平たくいうとどこに注目すべきかを決める仕組みのことです。

たとえば同じ「さくら」という言葉でも、「家の庭の桜」という場合と「観客に仕込まれたさくら」というと意味が違います。

家の庭の桜は植物の桜ですけれども、観客に仕込まれた桜は演技としての桜となります。

同じ桜という単語でも意味が違います。

前者は「家の庭の桜は」という文脈においての桜ですし、それに対して「観客に仕込まれた桜は」と言った時には、この「観客に仕込まれた」という文脈での桜です。

それぞれの文脈でどうなるかを把握するのが知性の根源だというのです。

単語一つ一つが個別に意味を持ちながら、別の単語への影響力やその受け取り方の情報を持っているというのがアテンション機構の一番大切なところだというお話でした。

それからグループに分かれて話し合いが行われました。

四つのテーマが与えられました。

どれも奥深いのですが、私が参加したグループに与えられたテーマは次のものでした。

「突然の脳梗塞で、あなたは意識不明になってしまった。残念ながら眼を覚ます見込みはない。あなたのスマートフォンには日常的に録音される声や生活データが蓄積され、それを元にAIで「あなた」の人格や意思をほぼ100%再現可能だ。あなたは終末期医療の意思表示をはっきりとはしていなかったが、このAIが言うには、「私は延命治療を絶対に望まない」そうだ。AIの意思に従って、治療をやめるべきだろうか。」

という問題であります。

これについてグループ内の六人で語りあいました。

まず問題になったのは、「スマートフォンには日常的に録音される声や生活データが蓄積され、それを元にAIで「あなた」の人格や意思をほぼ100%再現可能」というところでした。

果たしてこれで本当に私の人格や意思を再生できているのかという問題です。

心理学を学んできた修行僧は、ジョハリの窓について話をしてくれました。

四つの窓とは、自分も他人も知っている自分、自分は気づいていないが他人は知っている自分、自分は知っているが他人には見せていない自分、自分も他人も知らない自分という四つです。

スマートフォンでは、「自分も他人も知っている自分、自分は気づいていないが他人は知っている自分」だけしか分からないのではないかというのです。

このことは私も疑問に思っていました。

はたして日常的に録音したもので本当に本心が分かるだろうかと疑問に思いました。

言葉に発した時点でなんらかの忖度がはたらきます。

そこから、ではその人の本心とは何か、本性とは何かという議論に発展してゆきました。

本当の自分の意思というのはあるのか、考えてゆくとこれは難しいことになりました。

またその自分というのも、自己だけで完結するのではなく、家族にとってかけがえのない存在だったり、友人や恋人にとってもかけがえのない存在であったりします。

その人の意思だけで決めることにも問題があります。

ではその人とは何なのか、これまた難しい問題となりました。

気がついてみるとまさに「AIという鏡」を通して、自己とは何か、人間とは何かを考えさせられているのでした。

最後に佐々木閑先生が仰ったことが印象に残りました。

「AIの進歩はまさに「諸行無常」であって、常に変化して、もうどうなるかわからないのです。

また諸法無我という真理を表しています。

つまり、我々の内側に自分というものを持つという概念が覆されます。

人間とは知的な最高の生命体であるという人類20万年の先入観が今すべて失われようとしています。

人間はもうAIには及びません。

我々はこれから世界で2番目の知性という宿命を背負って生きていかなければならないのです。

全く新しい自分の立ち位置を見ながら生きていくことになります。

今まで我々は一番であるということを表す象徴語として、魂とか自我とか、あるいは本当の自分とか、もっと言うと人間性といった当たり前にあるように思っていた事柄、これが実は自分の優越性を表す象徴語であったということに今初めて気が付くわけです。

そしてAIの下で、AIにいろいろなことを指導されながら生きていくというこの立場に、悪く言えば貶められていく時代にどうやって平安に生きていったらいいのかということを考えるのです。

自我のない世界で我々はどうやったら平穏に生きていけるかということを2500年前に考えた人がいました。

それがお釈迦様です。

お釈迦様は、私たちに平穏に生きる道をちゃんと示してくれています。

これは我々にとってはありがたいと思います。

そして、その世界に私たちがたまたまいるということも大変ありがたいご縁です。

仏教こそが、特に釈迦の説いた仏教の教えというものこそが、我々を支えていく大切な指針になるだろうという自覚を持っていただきたいと思います。

他者との比較の中の幸福なんていうのは、もうこれからは成り立たないわけですから、自分自身が自分を向上させていく、あるいは新しい世界を知っていく、それが実は本当の喜びなのです。

そしてそれは出家者の生き方そのものであります。

そういうことを自覚して仏教に身を置くということの喜び、そういうものを他の人たちにも伝えていくということをなさっていただきたいと思います。」

というお言葉でありました。

まさに仏教はAIの地代にも必要なのだと学びました。

 
横田南嶺

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