あってもよし、なくてもよし
京都駅から円町駅まで電車で行って、円町駅からは歩いて参ります。
わずかな距離ですが、歩くだけで汗をかくほどの暑さでありました。
講義は、夢窓国師の夢中問答集で、今回は三種の慈悲について話をしました。
三種の慈悲は、衆生縁の慈悲と法縁の慈悲と無縁の慈悲であります。
衆生縁の慈悲というのは、眼の前に苦しんでいる人がいるのを見てなにかをしてあげようという慈悲であります。
困っている人をたすけてあげるのです。
それは物を与えることもあります。
いま食べ物がない、お水がないならば、それを与えてあげます。
苦しんでいるようなら、その原因を除いてあげます。
私が行っているイス坐禅もそうであります。
まず体が固くなって緊張して疲れがとれないという方には、体をほぐして楽にしてさしあげるのです。
閑かな穏やかな心にしてあげます。
これも大事なことであります。
しかしそれにとどまってはいけないと夢窓国師は説かれます。
その次は法縁の慈悲であります。
これは法という真理を伝えるのであります。
夢窓国師は「因縁によって生じたありとあらゆるものは、有情非情すべて皆、幻に現われたものと同じだ」という真理を観ることだと説かれています。
なにかをしてもらって、それに安住していてはまた苦しみが起きてきます。
すべては幻のごときもの、すべては空であるという真理に目覚めてこそ本当の救いなのです。
しかし、「なおも如幻の相を残しているが故に、これもまた真実の慈悲とは言えない」と夢窓国師は仰せになっています。
まだ真理や教えというものが残っています。
それではまだ不十分なのです。
そこで無縁の慈悲が説かれます。
これは「教化しようという心を発さなくても、自然に衆生を導くこと、あたかも月がどこの水にも影をうつすがごとくである」と夢窓国師は説かれています。
救おうという心もおこさずに自然と感化してゆく慈悲であります。
『至道無難禅師法語』に
「火は物をこがすと、其火はしらず。水は物をうるほすと其水はしらず。ほとけはじひしてじひをしらず。」という言葉があります。
火は、あたためてあげようなどとは思いませんが、自然と火のそばによると温まります。
水は大地を潤そうなどと思いませんが、自然と雨となって大地を潤し、生命を育んでくれます。
そのように仏の慈悲は慈悲を行おうとも思わないのです。
これが無縁の慈悲なのであります。
午後からは禅文化研究所に行って、会議をおこない、終わったあとには、研究所のYouTubeを撮影していました。
墨蹟紹介と無文老師の般若心経を学ぶであります。
般若心経では無明について学びました。
無明も無く、亦無明の尽きることも無しという一節であります。
無明は「真理に対する無知。一切の迷妄・煩悩の根源」であります。
それを無文老師は次のように説いてくださっています。
「私どもにこだわりになるのは、やはり見る世界でもなく、見られる世界でもなく、見られた世界でもなくして、何か心にどうしても清浄になりきれんものがある。
どうしても清浄になりきれんものが心の中にどうしてもある。
朝起きて秋晴れの空を眺めて、今日は日曜で仕事もなし、何もせんでもいいと、煙草を吸うて、さて何をしようかという時には、無心であってこだわるものは何もないようでありますが、そんな時にもなお心の奥底にこだわるものが一つある。
取れんものが一つある。清浄になりきれんものがある。
それを無明というのであります。
人間の存在の根底になる根本の煩悩、盲目的本能であり、これがあるために、人間は生、老、病、死の苦を繰り返すのであります」というように、心の奥底にどうにもならない苦しみの根源があるというのです。
その無明の故に、貪りや瞋りや愚癡が生じます。
無文老師は
「貪瞋痴ということを仏教では申します。
あれが欲しいこれが欲しいと貪る心。
あれも気に入らんこれも気に入らんと腹の立つ心。
ああしなければよかった、こうしなければよかったという、すんだことに対する愚痴の心。
そういうものも実は何も実在するわけではありません。」
と説かれています。
しかしその迷いもまた実体のあるものではありません。
「ちようど青空に雲が湧くように湧いて出るだけであって、青空は実在だが雲は実在ではない。雲は湧いて出るだけである。
こう分かれば無明もない。
しかし、無明というものは実在するものではないけれども、なくなるものでもない。
腹が立つというようなものは、身体中どこを探しても何もありはせんが、しかし腹の立つことはなくならん。」
というのです。
そこで無文老師は、
「無明も無し、無明の尽くることも無し。
本当に秋晴れの空は、このとおり雲一つないスカッとした日本晴れだということが分かれば、雲があってもいいではないか。
雲があるのが面白いではないか。こういうことになる。
無明は実在するものではない、お互いの本性は煩悩なぞあるものではない、スカッとした無心が、空が本性だと分かれば、煩悩はあってもいいではないか。出て来たっていずれまもなく消えるものだ。
こう徹すれば、煩悩があるのも、かえって人間味があっていいではありませんか。
煩悩があってもよし、なくてもよしと。
こういう世界が空という世界ではないかと思うのであります。」
と説かれています。
こういう真理を説いて真理に目覚めさせて苦しみから解放してあげるのが法縁の慈悲というものでもあります。
あってもよし、なくてもよし、何事にもそのようなこだわらぬ心で対応してゆきたいものであります。
横田南嶺