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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.07.27
今日の言葉

舌も無いとは

禅文化研究所のYouTubeでは、山田無文老師の『般若心経』をテキストにして、毎回般若心経の話をしています。

こちらのYouTubeではコメントもいただくことができます。

これを拝読するのも楽しみであります。

「いつも貴重な解説をありがとうございます。『般若心経』が智恵の完成と言われる所以がスーっと心に落ちました。短い時間で難しい事を分かりやすく説いて下さって感謝申し上げます」

というお言葉がありました。

こんな言葉をいただけると、とても有り難く嬉しくなります。

先日は「無眼耳鼻舌身意」というところを解説してみました。

「この故に空の中には、色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く」というところです。

まず無文老師の解説を参照してみます。

「身体はあっても少しもその空の世界の妨げにはならん。
いろいろなことを思うたり、悲しがったり、喜んだりしておるが、それが少しも空の世界には妨げにならん。
身体はあってもないと同じこと、心はあってもないと同じこと。

空という広々とした世界には身体もなく心もない。目もなく耳もなく鼻もなく舌もなく身体もなく心もない。
目も空である。しかも外のものは何でも見ていきます。松の木を見て、紅葉を見て、お寺を見て、岩を見て、次から次へ何でも物を見ていきますが、これは目が空だからである。

目の中に物があったら、もう次のものは入らんはずだ。

つまり目が空だから次から次へ何でも見ていくことができる。

耳も空だから次から次へ何でも聞いていくことができる。

鼻も空だから次から次ヘ何でも嗅いでいくことができる。

舌も空だから次から次ヘ何でも味わっていくことができる。」

というのであります。

無文老師の解説は空ということを無いというのではなく、なにものにもとらわれないことだと説いてくださっています。

目が空であるというのは、目がないということではないのです。

目がないと何も見えません。

そうではなく、空というのは何でもよく見えるのです。

無文老師は「目が空だから次から次へ何でも見ていくことができる。」と説いてくださっています。

そして「舌も空だから次から次ヘ何でも味わっていくことができる。」と説かれています。

そのあと無文老師は、三遊亭圓朝の話を説いてくださっています。

山岡鉄舟居士と圓朝師匠との逸話であります。

これについては、『最後のサムライ 山岡鉄舟』(教育評論社)から引用します。

「鐵舟はある時、三遊亭圓朝を招いて、「わたしは子供の時分、母から桃太郎の話を聞いて非常に面白く感じた。今日は桃太郎を一席語ってくれ」と要望した。

そこで圓朝は、得意の弁舌にいっそうの縒りを掛けて演じたが、鐵舟はさも不興げに「お前は舌で語るから肝心の桃太郎が死んでしまっている」と言う。

さすがの圓朝もこれには大いに面目を潰したが、内心ひそかに、この先生は禅をおやりになるから、こんなおかしなことを言われるのだと思い、そのまま引き下がった。

しかし、それ以来圓朝は、世の中の人が自分の落語にやんやと騒いでくれるにもかかわらず、どうにも物足りない気がしてならないので、ある日鐵舟の屋敷に赴き、事細かに実情を明かし、「わたくしごとき者にでも、できることであるのならば、禅をやりたく存じます」と言うと、鐵舟は「当然そうあるべきだ。

今の芸人は、人が喝采さえすれば、すぐにうぬぼれて名人気取りになるが、昔の人は自分の芸を始終自分の本心に問い掛けて修行したものだ。

しかし、いくら修行しても、噺家であれば、その舌をなくさない限り本心は満足しない。

役者であれば、その身をなくさない限り本心は満足しないものだ。

そしてその舌や身をなくす法は、禅をおいてほかにはない。

だからこそ昔の諸道の名人は皆禅に入っている。

その禅をやるには智恵も学問もいらない。

ただ根気さえあればよいのだ」と言って聞かせたのであった。」

と書かれています。

それから鉄舟居士は、圓朝に無字の公案を授けたのでした。

無とは何かを参究するのです。

無とはなにか、あれこれと思案するのではなくて、全身全霊ただ無の一字になりきる修行です。

それから二年無字の工夫をして、ようやく無字の境地に到りました

鉄舟居士のもとにかけつけると、鉄舟居士は桃太郎を語ってみよと言いました。

圓朝はすぐに桃太郎を演じてみせました。

鉄舟居士は、「今日の桃太郎は生きているぞ」と言われたのでした。

その後鉄舟居士は滴水禅師と相談して無舌居士という居士号を与えたのでした。

圓朝は、鉄舟居士より三歳若いのでした。

『最後のサムライ 山岡鉄舟』によれば、圓朝師匠は「禅に対する素地は準備されていたよう」なのです

それは「十代の頃には異父兄が住持をしていた禅寺でともに生活をし、その兄の勧めで坐禪に励んでいる。

この兄は圓朝が二十四歲の時に三十三歲の若さで亡くなり、以来禅からは遠ざかるのだが、明治十年、陸奥宗光の贔厦を受けていた縁で、その父である伊達自得居士の禅学の講義を聞く機会を得る。

そこで高橋泥舟と知り合い、泥舟の紹介によって、圓朝は鐵舟と出会うことになるわけである。」

と書かれています。

もともと禅に素養があって鉄舟居士に参じて開眼したのでした。

無文老師も「こういう境界になりますと、舌があってもないと同じことである。身体があってもないと同じことであります」

と説かれています。

般若心経の「無眼耳鼻舌身意」を禅の立場から味わっています。

 
横田南嶺

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