菩薩の願い
午前の講座は九時からなので、八時過ぎには尼僧堂に参りました。
しばし控え室で待っていると、青山俊董老師がお見えになりました。
縁側のイスに腰掛けてしばしお話をうかがいます。
これまた至福のひとときであります。
青山老師は、満面の笑顔をたたえながら、時に厳しい言葉をさりげなく述べられます。
談笑中に戈矛ありというところです。
九時からの講座は、菩薩願行文を拝読しました。
その前日に、修行の心構えを説いている今北洪川老師の亀鑑を読んでいました。
修行することは、親が産み育ててくれた大恩に報いることであるという教えです。
修行ばかりではありません。
生きるということ自体が、親が産み育ててくれた大恩に報いる行でもあります。
はじめにいつものように皆さんと一緒に合掌し感謝して始めました。
まずはじめには生まれたことの不思議に手を合わせることだと思ったのでした。
徳永康起先生が
まなこ閉じて
トッサに親の祈り心を察知しうる者
これ天下第一等の人材なり
と仰っています。
目を閉じたら、まず真っ先に親の恩を思うのであります。
それから次に今日まで生きてこられたことの不思議に手を合わせます。
お互いに誰ひとりとして、自分一人では生きてこられなかったのです。
多くの方々のおかげでこうして生きてこられたのです。
そのおかげでここにいるのであります。
そして最後に、「今日ここにこうしてめぐりあうことが出来たご縁の不思議に手を合わせて感謝します」と申し上げているのであります。
たった三分ほど手を合わせて感謝して法話を始めると、話す方も話安く、聞く方も法話がすっと心に入ってくると思って行っています。
終わったあとにも、あの手を合わせて感謝しているだけで、その場の空気がガラッと変わりますと言ってくださった方がいました。
これはお寺ですととてもやりやすいものです。
大きなホールだったりするとなかなかやりにくいものです。
はじめに菩薩願行文の全文を読んでみました。
短い文章ですが、誰がお作りになったのか、はっきりしません。
間宮英宗老師がお作りになったともいわれます。
どなたのものであれ、そこに真理が説かれていれば、学ぶことができます。
まず菩薩の説明から始めました。
ボーディサットバの音写ですが、菩提を求める者、道を求める者という意味です。
もとは悟りを開く前のお釈迦様のことを言いました。
それから悟りを求める者を皆菩薩というようになりました。
また単に道を求めるのみならず、自分が救われる前にまず人を救おうという願いを持った者を言います。
これを「自未得度先度他」といいます。
『坐禅儀』のはじめにには、坐禅して智慧を身につける修行をしようと思う者はまず、「誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし」と書かれていて、まず人を救いたいと願う心が一番最初になければならないと説かれています。
そういうと、昔から必ず、自分を救えなくてどうして人を救うことができるのか、自ら救うことが最初ではないかと言われます。
そこから四弘誓願文の話をしました。
まず第一に生きとし生ける者の悩み苦しみは限りないものですが、これを救ってゆこうと願うのです。
第二に苦しみの原因となる煩悩は尽きることがないのですが、これを誓って断ってゆこうと願うのです。
第三には、仏さまの教えは限り無くあるのですが誓って学んでゆこうと願うのです。
第四には、仏道はこの上ないものだけれども誓って成し遂げるように願うのであります。この四つの願いは仏道を学ぶ者ならば誰しも持つべき願いです。
人の苦しみを救おうという願いが第一番になっています。
この人を救おうという願いこそが、仏さまの心であり、この心を持って修行すれば、夢窓国師は「大悲内に熏習する」と説かれていて、その心が熏習といって心に染みつくと説かれています。
熏習というとその人や環境の影響によって心に染みつくものと言われますが、自分の心の中に願いを持っていけば、その自分のよい願いが自分の心に染みついて修行も進みやすいというのです。
自分の心の中に願いを持っていけば、その自分のよい願いが自分の心に染みついてゆきます。
お寺で坐禅したり、法話を聞いたりしますと、外からもよい教えが染みついてきて、そして内心にもよい願いをもつと内から染みついてきて、その両方から染みついてくるのです。
まず最初に「弟子某謹んで諸法の實相を観ずるに、皆これ如来真実の妙相にして、塵塵刹刹一々不思議の光明にあらずということなし。」
という文章から始まります。
この世のあらゆるものの真実の姿を見てみると、みな仏さまの真実のすばらしいおすがたで、この国土も、土も石ころもみんな仏さまの不可思議なる光明であるということです。
坐禅の修行は、この目覚めにつきると言っても結構です。
どんな人もその本性はみな仏さまの心です。
皆これ如来真実の妙相なのです。
人ばかりではありません。
鳥も虫もみな仏さまのまことの姿なのです。
そこから、法華経の
「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと」という言葉を紹介しました。
「わたしはあなた方を深く敬います。けっして軽んじたり、見下したりはしません。なぜならば、あなた方は皆、菩薩の道を行ずることによって、必ず仏になることが出来る方々だからです。」という意味です。
常不軽菩薩品にある言葉であり、法華経の真髄とも言われています。
そうしますと人間ばかりではなく、鳥類畜類に至るまで、犬や猫、鳥や獣にまで合掌礼拝の心で愛護してゆくのです。
更に一日中私たちの体といのちを養い守ってくださる飲食衣服、飲み物も食べ物も衣服も、仏さまや祖師の暖かい肉体であり、仏さまが仮に身を現してくださった慈悲の姿ですので感謝していただかなくてはなりません。
また、たとえ自分に対してまるで仇敵になって、この私を罵り苦しめるようなことがあっても、これは自分が遠い過去から知らず知らずに人を傷つけてきた、わがままな思いから造ってきた罪業を、いまこうして罵り苦しめられることによってその罪が消えてゆくと思って、何を言われても何をされても頭を下げて、むしろ拝む心で言葉を丁重にしてへりくだってゆくのです。
そうしますと、私たちの心に蓮の花が花開き、蓮の花に仏さまが現れ、どこもかしこもそこが浄土になると説かれているのです。
どこにいてもそこに仏さまの光明が光り輝きます。
そんな菩薩の願行の話をさせてもらいました。
そのあと本堂で皆さんと一緒に坐禅をさせてもらって、お昼を頂戴したのでした。
午後からは延命十句観音経の話をしました。
汗びっしょりになる覚悟で参りましたが、本堂はエアコンが効いていて、有り難いことに汗をかくこともなく、ただ恥だけをかいてきたのでした。
横田南嶺