青山俊董老師
昨年は、青山老師が出家なされたお寺、塩尻の無量寺で法話をさせていただきました。
無量寺には二度ほどお参りさせてもらっています。
今回は、青山老師が、堂長をお勤めになっている愛知尼僧堂の緑蔭禅の集いにお招きいただいたのでした。
愛知尼僧堂には、三年ほど前に、おうかがいさせてもらって対談のご縁をいただいています。
致知出版社の企画で、愛知尼僧堂を訪ねて青山老師と対談させてもらったのでした。
その時も夏の日でありました。
今回も七月の暑い時期となりました。
名古屋は暑いと覚悟して参りましたが、うかがう前に雨が降ったようで、折から涼しい風が吹いていました。
名古屋の覚王山の駅の近くに尼僧堂がございます。
青山老師は、この尼僧堂に昭和三十九年からお勤めになっておられます。
今回は第五十七回女性緑蔭禅の集いという会であります。
いただいたパンフレットに、青山老師のご経歴が書かれていましたので、紹介します。
昭和八年、愛知県一宮市に生まれる。
五歳の頃、長野県塩尻市の曹洞宗無量寺に入門。
十五歳で得度し、愛知専門尼僧堂に入り修行。
その後、駒澤大学仏教学部、同大学院、曹洞宗教化研修所を経て、三十九年より愛知専門尼僧堂に勤務。
五十一年、堂長に。
五十九年より特別尼僧堂堂長および正法寺住職を兼ねる。
現在、無量寺東堂も兼務。
昭和五十四、六十二年、東西霊性交流の日本代表として訪欧、修道院生活を体験。
昭和四十六、五十七、平成二十三年インドを訪問。
仏跡巡拝、並びにマザー·テレサの救済活動を体験。
昭和五十九年、平成九、十七年に訪米。
アメリカ各地を巡回布教する。
参禅指導、講演、執筆に活躍するほか、茶道、華道の教授としても禅の普及に努めている。
平成十六年、女性では二人目の仏教伝道功労賞を受賞。
二十一年、曹洞宗の僧階「大教師」に尼僧として初めて就任。
明光寺(博多)僧堂師家。
令和四年、曹洞宗大本山總持寺の西堂に就任する。
と書かれています。
たいへんなご経歴であります。
著書もたくさんございます。
青山老師は、私よりも三十一歳年上でいらっしゃいます。
禅の言葉に「更に参ぜよ、三十年」というのがありますが、青山老師にお目にかかるたびに、まだまだ老師の年まで三十一年、精進しないといけないと痛感します。
この緑蔭禅の集いも、昭和三十九年に尼僧堂につとめて、すぐにおはじめになったというのですから、私が生まれた頃から続いていることになります。
青山老師にお目にかかってご挨拶した折にも、私の生まれた時からやっているのですと言われて、恐れ入った次第です。
前回おうかがいした折りには、書院で対談して失礼しましたので、本堂にお参りすることはありませんでした。
今回は、本堂でお話させてもらいました。
ご本尊様を背にして話をするのは苦手であります。
また青山老師も聴講してくださるので、一層恐縮してしまいます。
この緑蔭禅の集いは二泊三日行われています。
私は初日と二日目とで、三回講座を務めさせてもらいました。
それぞれが九十分であります。
三日目は別の用事が既に入っていましたので、私は途中で失礼することになりました。
そのあとは青山老師がご講話なされるとのことであります。
もっともお集まりになっている方々は青山老師のお話を楽しみにしていらっしゃると思いますので、途中で退席してよかったと思います。
初日の第一講は、今北洪川老師の正法眼堂亀鑑についてお話しました。
洪川老師が円覚寺にお入りになって、正眼眼堂という禅堂を開単して、修行僧達に示された法語であります。
洪川老師が円覚寺の住持になられたのは明治八年でした、
それから明治十年に僧堂を開単されました。
そして特筆すべきは、禅堂を開単して修行僧を指導すると同時に、正伝庵に択木園を開いて、一般の方々にも参禅の門戸をお開きになったということです。
多くの人が洪川老師に参禅したのですが、そのなかに若き日の鈴木大拙先生もいらっしゃいました。
大拙先生が満二十一歳の時であります。
大拙先生の著書『今北洪川』(春秋社)には、初めて洪川老師にお目にかかった時の様子を次のように書かれています。
「今覚えているのはいつかの朝、参禅というものをやったとき、老師は隠寮の妙香池に臨んでいる縁側で粗末な机に向かわれて簡素な椅子に腰掛けて今や朝餉をおあがりになるところであった。
それが簡素きわまるもの、自ら土鍋のお粥をよそってお椀に移し、何か香のものでもあったか、それは覚えていないが、とにかく土鍋だけはあった。
そしていかにも無造作に、その机の向こう側にあった椅子を指して、それに坐れと言われた。
そのときの問答も、また今全く記憶せぬ。
ただ老師の風貌のいかにも飾り気無く、いかにも誠実そのもののようなのが、深くわが心に銘じたのである。
ある点では西田幾多郎君に似通うところがあるように、今考える。
虎頭巌(注・隠寮は妙香池の畔、虎頭巌の上にあって老樹で掩われている)で白衣の老僧が長方形の白木造りの机に向かって、夏の朝早く土鍋から手盛りのお粥を啜る─禅僧とはこんなものかと、そのとき受けた印象、深く胸に潜んで、今に忘れられない」
という文章です。
枯淡な暮らしをしている禅僧の姿に接して感銘を受けられたのでした。
洪川老師は、もと儒学の学者でありました。
大阪のお生まれで、十九歳の頃には中之島に塾を開いて門弟達の教育をなさっていました。
それが二十五歳で出家して修行なさったのです。
京都の相国寺の大拙老師、そして備前岡山の儀山老師について修行をしました。
四十四歳で岩国の永興寺にお入りになっています。
この時に書かれたのが『禅海一瀾』であります。
洪川老師が修行僧たちに、どうしたら親が苦労して育ててくれた大きなご恩に報いることができるのかを説いたのが、「正法眼堂亀鑑」であります。
ただただ仏法の為に修行して真の僧宝となることだと説かれているのであります。
私は二十六歳で円覚寺に来て初めてこの文章を読んで感激したのでした。
その頃のことを思い出していました。
人に話をすることは自ら学ぶことであります。
自らの修行を反省する気持ちでお話させてもらいました。
横田南嶺