わびる心
いろんな経典や禅の語録から、禅語を集めて編纂された書物です。
貞享五年(1688)に刊行された『禅林句集』がもっとも流布されています。
岩波文庫でこの『禅林句集』を、円覚寺の前管長足立大進老師が上梓されています。
その折りに、私も数年間にわたって編集作業に携わらせていただきました。
たしか七年くらいかけて、調べて編集していました。
あらゆる禅語の出典をすべて調べ尽くし、本来の禅語の用いられ方を明らかにして、その禅語がどのように今日使われているかを検討して、それぞれ『禅林句集』に載せたのでした。
私の方で調べるだけ調べて、最後に足立老師に、採用するかどうか、ご裁可を仰ぐという形で作業をしていました。
その折りにいくつか、問題となった禅語があります。
その一つに「仏滅二千年、比丘慙愧少し」というのがあります。
この禅語は、貞享年間に発行された『禅林句集』にも「慙愧多し」と「慙愧少し」と二種類書かれています。
さてどちらが正しいのか、どちらを採用すべきか検討したのでした。
「慙愧多し」を採った場合、意味は、「お釈迦様がお亡くなりになって二千年も経つと、僧達も慙愧することが多くなる」となります。
末世と言われますが、僧達も修行を怠りがちになり、恥じ入ることが多くなるという意味です。
足立大進老師は、即座に「慙愧多し」だろうと仰せになりました。
しかし出典を参照すると、やはり両方の用いられ方があります。
もし「慙愧少し」とすればどんな意味になるでしょうか。
慙愧することが少ないのだから、よいことのように思われるかもしれません。
しかし私には、もっと深刻な嘆きではないかと思われたのでした。
「お釈迦様がお亡くなりになって二千年も経つと、もはや心に恥ずかしいと思う、慙愧の心をもった僧も少なくなってしまった」ということではないかと思ったのでした。
円覚寺の開山である仏光国師の語録には、「慙愧少し」となっているので、結局岩波版『禅林句集』には「慙愧少し」を採用したのでした。
毎月二回修行道場で布薩を行い、この頃は一般の方々とも布薩を行っていますが、これは慙愧の心を忘れないためでもあります。
また月に二回くらいではたりませんので、毎日の暮らしの中でも慙愧の心を失わないように心がけたいものであります。
降りに触れて慙愧をすることに習慣にしておきたいのです。
やはり反省すること、素直にお詫びすることは大事であります。
人に迷惑をかけたと気がついたとき、あのときは言い過ぎたと気づいたとき、あるいは何気ない振る舞いが他人を傷つけたと知ったとき、心の底から「申し訳なかった」と思う心がお互いには具わっています。
これが慙愧であります。
人間には、この慚愧の心があるからこそ、仏道の修行においてはまだまだと思って精進してゆくことができるのです。
もっとも世間では、それぞれの立場においては、容易に自分に非を認めてはいけない時もあるようです。
慎重にしないといけないこともあるようです。
責任の所在をはっきりしないとならないこともあるでしょう。
しかし、自分の責任を問われないように保身に走ったり、人のせいにするのは考えものです。
わびることは決して負けることではありません。
仏教の立場からいうと、「慙愧」の心ほど尊いものはありません。
「慚恥の服は、諸の荘厳に於いて最も第一と為す」という言葉があります。
お釈迦様の最期の教えと伝えられている『遺教経』にあります。
「荘厳」というのは、厳かに飾ることです。
「慚恥」の服をまとうことが一番の荘厳だというのです。
心に羞じることこそが、あらゆる飾りの中で、第一番だということです。
心に恥じ入り、わびることは人間に与えられた最も尊いものであります。
かつてお茶の宗匠と対談したときに、佗茶の「わび」というのも「わびる」ことだと教えていただきました。
精一杯のおもてなしをしても、こんなことしかできなくてとわびることが、「わび」なのだというのです。
東日本大震災の時には、大勢の方々がボランティアに訪れていました。
お坊さん達も積極的に被災地を訪ねてくださっていました。
そんな時に、私の存じ上げている、とある本山の管長さまは、私にはなにもできないと言って、テレビの前で被災地の映像を見ては涙を流しておられたという話を聴きました。
現地で活動される方が立派であるのはいうまでもありませんが、私はその話を聴いて、このように「何もできなくて申し訳ない」という気持ちも忘れてはならないと思ったことでした。
布薩を行って戒の条文を読むのですが、そのたびに沸き起こるのは慙愧の心であります。
戒は、戒を守ることよりも、むしろ守れていないことに慙愧する心をおこすのが大事だと思います。
もっともあまり自分を責めすぎてもよろしくありませんので、こんな自分でも生かしてもらっているのだと感謝し、出来る限りのことを務めていこうと歩みを進めてゆくのです。
慙愧の心、わびる心は、自分の足元を照らしてくれる明かりだと思うのであります。
横田南嶺