イス坐禅を楽しむ
もう三年目に入っています。
その日は午前中に甲府市内のお寺で葬儀を勤めてから参りました。
お寺の奥様のお葬儀を頼まれてお勤めしてきました。
今のご住職も、それから副住職も円覚寺で修行されたご縁があります。
午前十一時からお昼過ぎまで丁寧なお葬式でありました。
ご出棺を本堂からお見送りして、東京に向かいました。
こういう儀式は、あまり体を動かすわけではないのですが、緊張しますし、疲れるものであります。
しかしながら、こういう時こそ疲れがとれて元気になるのがイス坐禅であります。
もう自分でイス坐禅の効果がよく分かっていますので、イス坐禅が苦になりません。
むしろ疲れた体でもイス坐禅に向かうのが楽しくなってきます。
思った通り、イス坐禅のおかげですっかり体も心も楽になったのでした。
それから今回感じたことのひとつに、イス坐禅で体の疲れがとれるだけでなく、イス坐禅に行くぞと思うだけで疲れがとれるということであります。
もうイス坐禅で身心が調い疲れも取れることを体が覚えていてくれるのでしょう。
イス坐禅に行こうと思うだけで、体が調ってくるのです。
5時には会場について、支度をします。
イスをならべて、日本手ぬぐいをおいて、その日に甲府で買ってきたお土産のお菓子などをイスに置いておきます。
それから今回は、割り箸を二膳用意しておきました。
割り箸を使うのは初めてであります。
最近工夫したことであります。
イス坐禅の会では毎回アンケートをとっていて、質問などもいただくようにしています。
先日のイス坐禅の会でもまずその前の会のアンケートから質問や感想を紹介しました。
こんな感想がありました。
「「(ストレッチの動きも含めて)すべてが坐禅である」という旨のお話が印象に残っており、イス坐禅の後に作業に入ると、手を動かしている時間までもが坐禅の延長にあるように感じられ、落ち着きのある集中が自然と続いていくように感じております。」
というものです。
このように日常を禅の暮らしにしてゆくのが大事だと思っています。
「坐禅終了間際に、これからが坐禅です、とおっしゃいました。
坐禅の会が終わって、さぁて、帰ろうと、禅をそこで終わらせてしまっていました。
禅を続けていこうと思います。」
という言葉もございました。
これが私の目指しているところであります。
これも長い間修行道場で修行僧たちの指導をさせていただいて気がついてきたことです。
はじめの頃は、坐禅をさせることに力を入れていました。
しっかり坐禅させる、長く坐らせることに重きを置いていました。
ところが人間は坐らせようとすると、反発したがるものです。
坐らされている時間だけは神妙に我慢していますが、終わったあとは、だらんとしてしまいます。
もうやりたくなくなってしまいがちです。
もっともしっかり坐らせると、それなりの効果もあり、満足感もあります。
しかし、そのあとに持続しないといけませんし、禅は日常の暮らしそのものであります。
そこで最近は、坐りたくなるように指導を心がけています。
坐りたくなるようにしておけば、あとは自分で坐禅をしてゆくのです。
強制されて坐るより、自分で坐りたくなって坐る方がよいと思ったのであります。
イス坐禅でもよい姿勢がいかに心地よいかを感じてもらうように努力しています。
そうしますと、ずっと坐禅が続いてゆくのであります。
「月に一度の坐禅会では、参加されている皆さまと共に静かに坐る時間を重ねるなかで、沈黙そのものとの信頼関係が築かれているような感覚を感じています。」
という言葉もありました。
これも大事なことであります。
私たちの人間関係は、多くは言葉を媒介としています。
言葉によって理解し合うことはとても大事であります。
世の中の多くはそんな信頼関係で成り立っています。
しかし、言葉を使わない信頼関係もあります。
言葉になる以前の世界を禅では大事にしています。
みんなでただ黙って坐っている、そこに安らぎと落ち着きがあり、信頼関係が築かれているのです。
「ゆっくり丁寧に身体をほぐしていく行程は自宅でせっかちに簡単に事前運動を終わらせてしまいがちな私に毎回静かな感動をもたらしてくださいます。
貴重な時間をありがとうございます。」
という言葉もありました。
これは私自身も同感なのです。
自分でやっていると、忙しい時などはかなりせっかちになってしまいます。
イス坐禅の時間と場所では、みんなとゆっくり丁寧にできますので、自分自身が一層調ってくると感じています。
前回の質問で、気を充たすということについて詳しく教えてほしいというのがありました。
そこで気を充たすにはどうしたらよいか考えてみました。
ものを充たすには、何にものを充たすか明確でないといけません。
気を充たす、器をしっかりと把握することから始めようと思いました。
どこに充たすかというと全身に充たすのです。
そこで全身を感じることを行ってみました。
毎回行っている手のワークで手の感覚を高めておいて、その手で体に触れてゆきます。
頭のてっぺんから額、顔、腭、首、肩と手でそっと触れてなでてゆくのです。
腰、仙骨、お腹、ふともも、膝、すね、ふくらはぎ、足の甲から指先までさすってあげます。
これが気を充たす器です。
そして次にこの器に気が既に充ちていると思います。
思えば全身に血管が張り巡らされています。
神経も全身に通っています。
盤珪禅師は不生の仏心のままで暮らせばよいと説かれていました。
しかしそれではただうっかりして、ぼやっとしているようにも思われますが、それでいいのでしょうかと質問した僧がいました。
盤珪禅師は仰いました。
あなたが何も思わずにただ坐っている時に、後ろから誰かが背中を錐で突いたら、痛いと感じるかどうか、痛いと思うだろうと。
その僧は「そりゃあ、ぼやっとしている時でも、後ろから錐で突かれたら痛いです」と答えました。
錐で突かれて痛い、と感じるならば、それは決してうっかりしているというのではないと盤珪禅師は仰いました。
からだ中に神経が張り巡らされているのです。
どこを突いても感じるのであります。
すでに気が充ちていると感じて坐るようにしました。
すると終わったあとにこんな感想をいただきました。
「全身を触ってから坐禅するのがとても良かったです。
色々整えてから坐っても、どうしても身体と身体のあいだに切れ目が浮き出てきてしまう感じがしていましたが、全身触ることできちんと身体のまとまりがふんわり確保されたまま坐ることができて、安定感が増したように思います。」
という感想をいただきました。
すでに気が充ちている証拠でもあります。
そして最後にいよいよ割り箸の登場であります。
これは股関節の引き込みに使いました。
股関節を引き込むということを大事にしています。
ところがなかなか伝わりにくいものです。
私もはじめの頃はピンとこなかったものです。
どうしたら体感してもらえるかと、あれこれ工夫してきて思いついたのでした。
股関節に割り箸をちょっと挟むだけのことです。
鼠径部のところに割り箸をあてて挟むようにするだけです。
これで効果てきめんなのです。
毎回参加してくれているホトカミの吉田亮さんも終わったあと、「股関節の引き込みは意識してきたつもりだったのですが、割り箸挟みによって、その明確さが10倍増しになりました。
今日もとても良いイス坐禅の時間でした。」
という感想を伝えてくれました。
いつものように感想をnoteに公開してくれています。
これを行ってみると皆さんの姿勢がいっせいによくなるのが分かりました。
そんな工夫をしながら、毎回イス坐禅の会を楽しんでいるのです。
横田南嶺