ごきげんラジオ
鎌倉エフエムは、円覚寺派浄智寺の住職朝比奈恵温和尚が、社長を務めてくださっています。
月の第一日曜日が多いのですが、六月と七月は第三日曜日に出ています。
本日七月二十日も午前10時から生放送であります。
ラジオではありますが、今はインターネットからも聞くことができるので、多くの方はインターネットから聞いてくださっているようであります。
鎌倉エフエムのホームページから簡単に聞くことができます。
また感想や質問なども送ることができるようになっています。
こちらもホームページから送れるのであります。
なにかお便りを寄せていただければ幸いであります。
このラジオは村上信夫さんからのご依頼であります。
ごきげんラジオも村上さんと二人で話をしています。
ラジオ番組ですので、音楽を流したり、二人で雑談したり、届いたお便りを読んだりしています。
午前10時から正午までありますが、その中で私が担当するのは、法話と、禅語の解説とそして坂村真民先生の詩を紹介することであります。
それぞれ10分くらいの短いものであります。
基本的には私が第一日曜日で、第二日曜日はその再放送、第三日曜日は、土居裕子さんがつとめてくださっていて、第四日曜はその再放送なのであります。
土居裕子さんは、東京藝術大学音楽学部声楽科を卒業された方で、女優であり歌手であり声優でいらっしゃいます。
ミュージカルも多く出ておられるようであります。
坂村真民先生ゆかりの宇和島ご出身でいらっしゃいます。
月によっては第一と第三が入れ替わることがあるのです。
土居さんの会ではミュージカルの話や、ボイストレーニングやアカペラの歌もあって、とても華やかであります。
私も時間の都合がつけば拝聴させてもらっています。
聴いているだけで心が明るくなります。
それに比べると、私の回の時は、法話に禅語でありますから、どうも地味で暗いものであります。
先日も前回の土居さんの回を拝聴することができました。
はじめに村上さんが番組に届いたお便りを読まれていました。
お便りというと、感謝の言葉や嬉しいお便りが多いのですが、そのお便りはどうもそうではありませんでした。
その前の回で、村上さんの仰った言葉がよく思われなかったようなのです。
お便りを送られた方は土居さんの熱心なファンのようでした。
その土居さんへの熱い思いを、揶揄されたように感じられたと聴いていて思いました。
もっとも村上さんに悪気があってのことではありません。
土居さんもまた全く気にしていらっしゃらないご様子でありました。
事なきを得たようにお便りの紹介は終わったのでしたが、私には何か違和感が残りました。
この違和感は何かなと、あとで考えてみると、それはお詫びの言葉がなかったことでした。
悪気はないし、土居さんも気にされていないので、問題はないといえばそうなのですが、少なくともお便りを寄せてくださった方は不愉快な思いをされたのです。
そのことに対してひと言お詫びがあった方がよいと思ったのでした。
ごきげんラジオなのに、「ふきげん」にさせてしまったのですから、すみませんでした、ごめんなさいの言葉が大事だと思いました。
お詫びをすること、そしてそのお便りを送って下さったことへの感謝の言葉が大事だと思いました。
その上で悪気はなかったことと、これから気をつけることを言うとよろしいかと思ったのでした。
言葉というのは恐ろしいものです。
何気ない言葉が相手を不機嫌にさせてしまうこともあるものです。
言葉のプロである村上さんですらそうなのですから、私のような者はなおさら気をつけないといけないとしみじみ思いました。
坂村真民先生に「とげ」という題の詩があります。
とげ
刺さっていたのは
虫メガネで見ねば
わからないほどの
とげであった
そのとげをみながら思った
わたしたちはもっともっと
痛いとげを
人の心に刺し込んだりしては
いないだろうかと
こんな小さいとげでも
夜なかに目を覚ますほど痛いのに
とれないとげのような言葉を
口走ったりしなかったかと
教師であったわたしは
特にそのことが思われた(『坂村真民全詩集第三巻より』)
という詩です。
いくら人を傷つけないように気をつけていても、知らぬうちに傷つけてしまっていることがあるものです。
知らないうちに辛い思いをさせて申し訳ない、心に恥じて素直にお詫びすることが大切です。
人を傷つけるような言葉を言ってはいないか、反省させられます。
山本玄峰老師という九十六才まで長生きされた、昭和を代表する禅僧がいらっしゃいました。
最晩年におそばに仕えていた方からうかがったことがあります。
もう九十才を超えてから、夜寝る前に布団の前で正坐して、頻りに何かをつぶやきながら頭を何度も何度も下げていたというのです。
何をなさっているのかと思っていると。お詫びしていたというのです。
今日あの人に会って、こういう事を言ったが言葉が足らなかった、不愉快な思いをさせたのではないか、申し訳ないことをした、すまないことをしたとお詫びしていたというのです。
ご立派な禅僧でもこのように反省しておられたのかと、この話を聴いて感動したことを覚えています。
またこういうお気持ちをもっていたからこそ、多くの人に慕われ、昭和を代表する禅僧と讃えられたのだと思います。
密厳院発露懺悔文に、
ことさらに殺し誤って殺す有情の命
顕わに取り密かに取る他人の財
という言葉があります。
命を大切にしているつもりでも何かの拍子に、生き物をあやめてしまうこともあります。
中国に於いて臨済中興の祖と仰がれる、五祖法演禅師という方は「我参ずること二十年。今方に羞を識る」と言われています。
自分は二十年参禅修行して、いま羞を識ったというのです。
その一言を後に霊源和尚という方が、羞じを識るという「識羞」の二文字は実にすばらしいという褒め称えたのでした。
やはり反省すること、素直にお詫びすることは大事であります。
言葉は慎重にしなければと思って、本日のラジオ生放送に臨みます。
失礼のないようにつとめたいと思います。
横田南嶺