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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.07.19
今日の言葉

生きるとはお世話になること

先日の日曜説教では「生きるとは」と題して話をしました。

七月の第二日曜日で暑くなるかと思ったのですが、朝は心地よい風が吹いていました。

日曜説教に行くときには、佛殿を回っていくようにしています。

これから拙い話をさせていただくのに、まず佛殿にお祀りしているご本尊毘盧遮那仏にご挨拶をさせてもらっています。

失礼させていただきますと頭を下げてから宗務本所に参ります。

それが八時半頃になりますので、大勢の方が方丈に向かって歩いています。

また日曜説教を聞いてくださる方は、佛殿にもお参りいただいています。

毎回のことながら有り難い光景です。

多くの方が方丈に向かって歩いておられるお姿を後ろから拝見していると、拝みたくなります。

それぞれ遠近いろんなところからお越しいただいていると思います。

日曜の朝、ゆっくり休んでいてもいいところを早起きして来てくださるのです。

そんな後ろ姿を拝見していると、臨済禅師のお言葉をしみじみと思います。

臨済禅師は仏とは今この眼の前で話を聴いているあなた方自身のことだと説かれています。

こうして話を聴こうと思って、一心に歩いておられる皆様自身が仏そのものだと思うのであります。

馬祖禅師は、禅とは何かと問われて、今私に質問しているものがそれだと答えています。

そうして午前9時にいつものように始まりました。

これも毎度毎度必ずなのですが、手を合わせて、

まずお互いがこの世に生まれたことの不思議、

今日まで生きてこられたことの不思議、

そして今日ここでお互いにめぐり会うことの出来た不思議に

手を合わせて感謝してから話を始めています。

毎回毎回行っていますが、このしばし三分ほど目を閉じて合掌するのがもっとも心が落ち着きます。

穏やかな心で話を始めることができるのです。

まず生きるということについて話をするので、今日こうして見渡してみるとここには生きている人たちばかりが集まっていますと申し上げました。

今となりに死んだ人はいないのであります。

皆さんお笑いになっていましたが、生きている人がこんなに集まっていることは実は奇跡なのだと思います。

生きることとは古今東西いろんな言葉が伝わっています。

私はまず永六輔さんの言葉を思いました。

「生きているということは誰かに借りを作ること。

生きていくということはその借りを返していくこと」という言葉です。

永六輔さんの『大往生』という本に載っています。

谷川俊太郎さんの

「生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと」と始まる詩があります。

これなどもまさにその通りだと思います。

この生きるということについては、先日の龍雲寺のYouTubeで細川晋輔さんと小池陽人さんと話をしていて考えたことであります。

生きるとはどういうことだと思いますかと問われて、私はすぐに、食べて出して、息を吐いて吸って、あとは寝るだけと答えたのでした。

これは臨済禅師の言葉がもとになっています。

岩波文庫の『臨済録』の訳によれば、

師は皆に説いて言った、「諸君、仏法には、造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり、飯を食ったり、疲れたならば横になるだけだ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も『自分の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている」というのであります。

生物学的には生きているということには定義があるようです。

「一定の構造と機能をもち、自己維持しながら外界と物質・エネルギーのやりとりを行い、成長・繁殖・進化するシステム」を生命というのだそうです。

臨済禅師の仰っているように食べて出すということは、まさに自己維持しながら外界と物質・エネルギーのやりとりを行っているのです。

服を着たり脱いだりするのは、恒常性を保っています。

いつも同じ体温に調整するように厚着をしたり薄着をしたりしています。

また汗をかいては体温の調整もしているのです。

朝皆さんが方丈に向かって日曜説教を聞こうと歩いているお姿も、みな朝のご飯を食べて、排泄もすませて、その日に気候に合わせた服を着て歩いているのです。

これは生きている仏様そのものなのです。

ご飯食べて出して息を吐いて吸ってあとは寝るだけで仏法はすべて、これが出来ていれば仏様だと申し上げました。

わざわざ朝早くから円覚寺に来て、なんだその程度の話かと思われるかもしれません。

しかし、どのひとつも出来なくなったらたいへんです。

出来なくなりそうになってから気がつくのでしょうが、その前に気づければ素晴らしいのです。

そのあと細川さんや小池さんとの話を紹介して最後にお伝えしたのは、食べることも服を着ることも、そのひとつひとつは自分一人ではできないということです。

いや一人で自炊して一人で食べていると言いたい方もいらっしゃるかもしれませんが、その食べ物ひとつ多くの手がかかっています。

いや畑で自分で作ったのだというかもしれませんが、日の光や雨や、風や土や大地の養分や微生物や多くの手がかかっているのです。

服を着るのもそうです。

そう考えてみるとやはり永六輔さんの詠ったように、

「生きているということは誰かに借りを作ること。

生きていくということはその借りを返していくこと」となります。

午後からは一般の方々と布薩を行いました。

仏名を唱えて礼拝をし、懺悔し三帰依三聚浄戒、そして十善戒を唱えて礼拝を繰り返します。

合計で二十七回の礼拝を繰り返しています。

礼拝をたくさん行いますので、体をほぐす体操から始めています。

礼拝もいつものように呼吸に合わせてゆっくり丁寧に行いました。

二十七回の礼拝を丁寧に行うと身心が調います。

終わりに質問で、午前中の日曜説教を聞かれたという方が、質問をしてくれました。

永六輔さんの

「生きているということは誰かに借りを作ること。

生きていくということはその借りを返していくこと」という言葉を聞いてなるほどその通り、その借りを返そうと思うけれども多くのご恩を受けた親はもういないのでどうしたらいいかという質問でした。

それは身近な人、ご縁のある人に返してゆけばいいのですと答えました。

どこかで誰かはみんなつながりあっていますので、誰か身近な人にお返してゆけば伝わるのですと申し上げました。

では自分の子や孫に返してもいいのですかと言われましたので、その通り、ご自身の子やお孫さんは、ご自身の親から見れば孫やひ孫になるのです。

孫やひ孫が喜んでいるのを見れば親もお慶びになるはずですと答えました。

生きるということは誰かのお世話になることだと思いました。

そして身近な人にお返ししてゆけばいいと思ったのでした。

 
横田南嶺

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