意識の及ばぬところ
出版社からの依頼で、甲野さんとの対談本を作っているのであります。
今年の間には出版される見通しであります。
既に三回対談してきて、もう十分といっても良いのですが、もう一度ということで、対談をしていました。
修行道場では何度も講座を開催してもらっていますし、対談も三回も重ねていると、お互いに話し易くなっています。
気楽に思うままにお話していました。
先日も甲野さんの講座を受けて、「注意と意識」という題で、管長日記に書いたところでした。
この管長日記「注意と意識」を読まれた方からお便りをいただきました。
この話を読んで、「驚き納得し感動し思わずペンを取りました」と書かれていました。
「意識と注意の違いを意識したことなく使っておりました」
「身体的表現を使うことで、行動が変わることに驚き、なるほどと思いました」
とも書かれていました。
そしてこの方はさっそくご自身でも試してみたようであります。
「踵麓をおく、中指麓、仙骨解放」と言葉にして坐ることで、今安定感があります」とも書かれていました。
私の拙い文章でも甲野さんのお話がすぐれているので、感じてくださる方がいらっしゃるのだと思いました。
意識というのは、人間にとってはとても大事なものですが、意識が邪魔になることもあります。
たとえば力を入れようと意識するともう入れすぎてしまうことがよくあります。
力を抜こうと意識すると抜きすぎてしまったりします。
また腰を立てようと意識すると、これまた余計な力を入れてしまうものです。
そもそも「腰を立てる」と言葉にすることにも限界があり、問題があります。
ほかによい表現が見当たらないので、そのように言っているだけかもしれません。
甲野さんと対談して午後からは佐々木奘堂さんの講座でありました。
奘堂さんの講座も、毎回のことながら、私たちの意識のはたらきを粉砕してくれる迫力があります。
あれかこれかと、あれこれ意識することでは届かない世界であります。
今回は「終日宴坐(不断坐禅)の道」と題して講義と実習を行ってくださいました。
「宴坐」という言葉はあまり見慣れませんが、漢和辞典で調べてみると、
「くつろいですわる。」ことであり、仏教語としては、「心を静めて坐禅すること」と説明されています。
「宴」には、「うたげ」の意味の他に、「やすい。やすんずる。落ち着いてくつろぐ。」という意味もあります。
以前、奘堂さんは、屋根の下で女性がくつろぐのが「安」であり、「安」に「日」を加えたのが「宴」だと説明されて、太陽が照っているなかで安らぐ様子だと解説されていたことを思い出します。
まずはじめに、私が七月八日の管長日記に書いた言葉を紹介してくれました。
「私などは、全く坐禅だけの人生を送ってきました。
十才の頃に坐禅にであって、それからはその坐禅のためだけに生きてきました。
それ以外の経験はほとんどありません。」
という言葉でした。
この言葉を引用されて、奘堂さんも「自分のそうだ、坐禅だけをやってきた」と仰せになっていました。
そしてそのあとに、
「しかし、坐禅わからない、闇の中をずっと歩いて来た。」
「坐禅の為だけの人生を送りたいけれども分からない」
と率直に仰っていました。
正直なお気持ちであります。
もっとも坐禅とはこれだと分かるようなものは、すでに意識のはたらきにしか過ぎません。
分からないから闇の中を歩き続けるのであります。
それからまず奘堂さんの長年の探求の結果の結論としてこんな言葉を教えてくださいました。
道元禅師の言葉と、漱石の『門』をつないで、奘堂さんご自身がお作りになったそうです。
「ただ わが身をも心をも はな(放)ちわす(忘)れて、終日宴坐これをつと(務)むべきなり。
頭の巓辺から足の爪先まで悉く充実させよ。
本来の面目現前せん。」
という言葉であります。
釈宗演老師言葉も紹介してくださいました。
『禅海一瀾講話』(岩波文庫)にあるものです。
「脳髄(のうずい)の頂上から、足の爪先まで、全身の力を集中し以て、「未生以前本来の面目如何」と直ちに這入ってゆく」
というのです。
それから夏目漱石の『門』から
「頭の巓辺から足の爪先までが悉く公案で充実したとき、俄然として新天地が現前するので御座います。」
という言葉や
白隠禅師の
「不断坐禅を学ばん人は、常に元気を全身に充しめ、塵務繁多、世事紛然、七顛八倒の上に於ても、片時も打失する事なかれ。」
という『遠羅天釜』からの言葉を引用して作られたものも紹介してくれました。
そうして坐禅の実習となります。
今回は、寝転がって、脚を頭の方にもっていって、そこから前に向かって起き上がって蹲踞するということを何度も繰り返しました。
ヨガの鋤のポーズのようなところから、前に向かって勢いをつけて起き上がるのです。
前を向いてということを何度も強調してくださいました。
前を向いて起き上がる、立ち上がる、そのはたらきを大事にしています。
今回も0歳児がハイハイから起き上がる姿勢、お坐りするところなどを学びました。
未生以前ということですから、生まれてから習い憶えたことではないというのです。
0歳児からもっている大事なものを今発揮するというのが奘堂さんの実践されている坐禅なのです。
ハイハイしていたところから太ももの付け根がついて坐ったのが正身端坐となります。
坐禅とは人間が人間であるために大事なものを実践するのだというのです。
こういうところは私なども大いに共感し学ばせてもらうところであります。
また歩くこと、橫になることも実習しました。
行住坐臥が常に坐禅になるのであります。
あれこれ意識するのでは及ばぬところを、直に実習させてもらえるのでありがたいことであります。
横田南嶺