生きるとは悦び
モンゴルに抑留された日本人の慰霊碑に、天皇皇后両陛下が花を手向けられていました。
モンゴルに抑留されていた方が大勢いらっしゃったことを、私は恥ずかしながら初めて知りました。
シベリヤ抑留はよく知られています。
戦後、旧ソ連軍の捕虜になった日本人は約57万5000人と言われています。
多くがシベリアに連行されました。
しかし、ほかにも、現在のサハリン、ウクライナ周辺、中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタンにも連行されています。
そしてモンゴルには約1万4000人の日本人が送られました。
そのうちの約1割は、満州で働いていた民間人だといいます。
モンゴル抑留の1万4000人のうち、死者は約1700人に上りました。
もっと歴史を学んでおかなくてはならないと報道をみていてつくづく反省しました。
シベリヤ抑留については、少しは学んでいるつもりでありました。
須磨寺の小池陽人さんのおじいさま、須磨寺の前管長小池義人和上は、シベリヤに抑留されていました。
その体験を綴った『シベリヤの鉄格子の中で』という本を持っています。
壮絶な体験が綴られている本であります。
最近では、「ラーゲリより愛を込めて」という映画が話題になりました。
映画はめったに見ることのない私ですが、この映画は実話がもとになっているというので、見に行ったのでした。
この映画は山本幢男さんのことを描いたものです。
1945年8月9日、ソ連は日本の植民地だった旧満州(現中国東北部)に攻め込んできました。
およそ60万人とも言われる日本人を自国領やモンゴルに拉致したのでした。
最長11年間も拘束していました。
強制労働や極寒、飢えの「三重苦」などで、およそ6万人が命を落としたのです。
山本さんもその一人でありました。
辺見じゅんさんの『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』という本があります。
この本を私は山本さんのご遺族の方から頂戴しました。
イス坐禅がご縁となって、いただいたのでありました。
早速私も映画を見ていたことをお礼状に認めて送りました。
そうしましたらこのたび『寒い国のラーゲリで父は死んだ』という、山本幢男さんのご長男である山本顕一さんの著書をいただきました。
辺見さんの『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』のカバーには、「極寒に地獄でもその男は希望を捨てず笑顔で詩と友を愛し続けた」と書かれています。
また更にカバーには、
「ソ連軍の侵攻により、約60万人の日本人が俘虜となった。
彼らはシベリアの収容所で重労働を課せられ、終戦後も囚われたままだった。
その中にいたのが山本幡男-彼は地獄のような収容所で句会を開き、美しい詩を綴り、仲間たちに希望を分け与えた。」
「敗戦から12年目に遺族が手にした6通の遺書。
ソ連軍に捕われ、極寒と飢餓と重労働のシベリア抑留中に死んだ男のその遺書は、彼を欽慕する仲間達の驚くべき方法により厳しいソ連監視網をかい潜ったものだった。悪名高き強制収容所(ラーゲリ)に屈しなかった男達のしたたかな知性と人間性を発掘した大宅賞受賞の感動の傑作。」
とも書かれています。
山本さんは極東のハバロフスクの収容所で「アムール句会」を結社していたのでした。
それは「帰国まで美しい日本語を忘れないように」との気持ちからだったというのです。
途中からソ連の監視が厳しくなり、解散を命じられたりもしました。
しかしそんな中でも必死の思いで風呂場の脱衣場や洗濯場にひそかに集まっては句会をつづけていたのでした。
見つかったら、抑留がさらに延ばされるかもしれないという中でした。
これも命がけの活動だったというのです。
戦後引き揚げが始まりました。
1955年4月、今度舞鶴に到着する引き揚げ船で幡男さんが帰国する、という知らせが市役所から届いたそうです。
幢男さんの奥様モジミさんは喜んで、引き揚げ船が着く京都・舞鶴に向かう準備をしていました。
舞鶴へ出発する直前、役所から幡男さんがすでに亡くなっているという電報が届きました。
奥様はそれまでは気丈に振る舞っていたそうなのですが、この時ばかりは慟哭なされたそうです。
『寒い国のラーゲリで父は死んだ』には、「長い間待ち望んできた嬉しい再会の夢が、突然に断ち切られた母と祖母の落胆ぶりは筆舌に尽くしがたいものであった」と書かれています。
幢男さんは病に罹り、遺書を認めました。
その遺書は「本文」と「お母様」「妻よ!」「子供らへ!」の4通でした。
ノート15ページ、4500字に及ぶものでした。
しかしソ連は抑留者が帰国する際に文書類を持ち帰ることを禁じていました。
見つかると帰国が取り消されたり、抑留が長引いたりする恐れもあったといいます。
6人の仲間がその遺書を暗記して幡男さんの遺族に届けるようにしたのです。
それぞれが一字一句を頭脳に刻み込み、帰国後にモジミさんら遺族に届けたのでした。
1957年1月半ばになって6人のうちの1人、山村昌雄さんが埼玉県のモジミさん宅を訪ね、幢男さんの遺書を届けました。
山本さんの死から30年以上経った1987年(昭和62年)夏、最後の遺書がモジミさんのもとに届けられました。
奇しくも山本さんの三十三回忌の盆に当たる日でありました。
幢男さんはわずか45才の生涯でした。
アムール句会で作られた句に、
初日の出染まらぬ雲ぞなかりける
というのがあります。
句集の劈頭におかれた句です。
句会に参加されていた方の句には、
生くことは悦びといふ木の芽見る
というのもありました。
想像を絶するような過酷な状況でも「生きることは悦び」と詠われているのです。
『寒い国のラーゲリで父は死んだ』には、山本さんが親しい友人に「僕はね、人間が生きるとはどういうことなのか、シベリアに来てようやくわかってきた気がするんだ」と語っています。
山本幢男さんが知った「生きる」とはどういうことなのか、とても量り知られるものではありませんが、思いをめぐらせています。
イス坐禅がご縁になって山本幢男さんのことを勉強し直しています。
横田南嶺