一生かけてもまだまだ
「閑処に在ってその心を修摂し、安住不動なること須弥山の如くせよ」という言葉です。
安楽行品の一節です。
岩波文庫の『法華経 中』には、
「閑かなる処に在りて、その心を摂むることを修(なら)い、
安住して動ぜざること、須弥山の如くせよ」
と訓読されています。
閑かな処で自分の心を修め、落ちついて動くことなく、須弥山のようであれという意味です。
「摂」という字には、おさめる、ととのえるという意味があります。
「摂心」という場合は、心を摂めて昏沈、散乱させないことを指します。
諸橋轍次先生の『大漢和辞典』にも「摂心」と出ていて、「こころをおさめて散らさない」と解説されています。
そのあとに次のように説かれています。
現代語訳は筑摩書房『世界古典文学全集』にある大森曹玄老師の訳を参照します。
「ここにおいて知ることができる。
凡も聖もない絶対の世界に入り、凡でも聖でもない自己の本質を知るには、かならず禅定静寂の力をかりなければならないし、また、坐禅したまま死んだり、立ったままで死ぬといった、生死自在を得るには、どうしても禅定の力によらなければ不可能だということを。
一生かかってこのことを明らめ、わがものにしようと努めてさえ、ともすればつまずいて思うにまかせぬものである。
いわんや、のんベんだらりとしていたのでは、どうして業力に敵しえようか。
だから古人は、こういっている、「もし定力によって死の苦しみを制伏し、生死を超脱することができないならば、空しくあの世に帰り、いつまでもさながら海上を流れるように、生死の波に押し流されるばかりだ」と。
天下の禅友よ、幸いにこの文を再三反復して心読され、自分が見性するばかりでなく、多くの人々にもその福音を頒ち、ともどもに諸仏と同じ正しい自覚を得られんことを。」
というものです。
凡を超え聖を越えとありますように、禅の悟りの世界では、迷いから悟りへといたるというものではありません。
凡も聖も、迷いも悟りもない、区別のない世界に目覚めることであります。
坐脱というのは坐禅したまま息を引き取ることです。
立亡は立ったまま亡くなることであります。
四祖道信禅師や五祖弘忍禅師は坐して亡くなっています。
三祖禅師は立ったまま亡くなりました。
三祖禅師は「世間の人々は、みな坐禅したまま死ぬのを尊び、めずらしいといってほめる。わたしはいま、立ったままで死のう、わたしにとっては、生きるのも死ぬのも思うままである。」と言って手で樹木の枝をつかむと、たちまちにして息がたえたというのです。
日本でも妙心寺の開山関山慧玄禅師は立ったままお亡くなりになったのはよく知られています。
無相大師関山禅師は、旅支度を調えて、笠をいただき、わらじを履いて、風水泉のほとりで、授翁禅師に大応国師、大燈国師二祖の深恩に報いなければならぬと遺戒されました。
そしてそのまま立ったままでお亡くなりになっていたのでした。
「一生かかってこのことを明らめ、わがものにしようと努めてさえ、ともすればつまずいて思うにまかせぬものである。
いわんや、のんベんだらりとしていたのでは、どうして業力に敵しえようか。」
という言葉はまさにその通りだと思います。
一生かかっても思うに任せぬものであります。
私ごときものでも、思えば十歳のときに坐禅にめぐり会って、この道こそ吾が行く道と思い定めてきましたが、半世紀くらいの精進ではまだまだということが分かるばかりなのです。
また同時に一生涯かけてもまだ足らぬという道に出会えたことは生涯の喜びでもあります。
こんな偈が伝わっています。
若し人、静坐一須臾せば、
恒沙(ごうしゃ)の七宝塔を造るに勝れり。
宝塔は畢竟(ひっきょう)化(け)して塵と為るも
一念の静心は正覚を成ず。
という偈であります。
「もしも、ほんのわずかの時間でも静かに坐るならば、それは、数え切れないほどたくさんの七宝の塔を造るよりも勝れている。
なぜなら、宝塔はどんな立派であろうとも、結局は朽ちてしまって塵になるが、一念の静かな心は、正しい悟りを成就することができるからだ」
という意味であります。
静坐というと岡田虎二郎先生を思います。
『岡田虎二郎語録』には、素晴らしい言葉がたくさん綴られています。
「あえて求むるなかれ。無為の国に静坐せよ。坐するに、方三尺のところあらば、天地の春はこの内にみなぎり、人生の力と、人生の悦楽とはこの中に生ずる。静坐は真に大安楽の門である。」
「静坐の姿勢は自然法に合する姿勢だ。五重の塔が倒れぬのは、垂直線がしっかりしていて物理的均整をたもっているからだ。静坐の姿勢で坐っていると前後左右から突かれても倒れない。」
「満身の力を丹田にこめての一呼吸一呼吸は、肉を彫刻してゆく鑿だ。」
「傲慢、横着、鬱気、疑心などはみな丹田の力の抜けた時なり。」
などの言葉です。
『岡田式静坐法』には、「正しき呼吸法」として、「吐く時に下腹部に気を張り自然に力がこもるようになること、その結果息を吐く時に下腹が膨れて堅くなり力が満ちて張り切るようになる」と書かれています。
「そのように臍下に気が満ちると胸は虚となる。
吐く息はゆっくりで長くなり、吸う息は空気が胸に入って胸が膨脹し、下腹は自然に軽微の収弛を見る」と書かれています。
そうかといって、胸が膨れても腹が虚となるのではなく、呼気にも吸気にも重心は臍下に安定していて、そこに気力が常に満ちているのであります。
気海丹田に気を充たして坐るのであります。
横田南嶺