坐禅を終えて
「もしも禅定を出ようと思うときは、ゆるやかに身体を動かし、注意深く立ち上がることだ。
決して軽率粗暴であってはならない。禅定を出てからも、一日中いつも臨機の方法を工夫し、禅定力を保持して、ちょうど赤ん坊を育てるようにせよ。そうすれば、禅定力は容易に完成できよう。」
ということです。
現代語訳は、筑摩書房『禅の語録十六』にある坐禅儀から引用しました。
原文は、
「もし定を出でんと欲せば、徐々として身を動かし、安祥として起ち、卒暴なることを得ざれ。出定の後も、一切時中、常に方便をなし、定力を護持すること嬰児を護するが如くせよ。即ち定力成し易からん。」
というものであります。
山田無文老師は、『無文全集第九巻』の坐禅儀で
「そこで定を出て起ち上がる時には、「徐々として身を動かし、安詳として起ち、卒暴なることを得され」である。
まず、静かに手足の先から動かし、あるいは手足をやわらかに摩擦したりして、それから、そろそろ身体の意識を復活し、静かに立つようにせんといかん。
そして、定を出たあとも、常に臍下丹田に力を入れて、立っても坐っても歩いても、定力を失わんように細心の注意をしてゆかねばならん。
あたかも牝鷄が卵を温めるように、母親が赤子を抱いたように、ちょっとの油断もなく定力を護持していくがよい。
せっかく夜坐をして定力を練っても、たちまち油断してこれを放擲してしまつては、また、元の木阿弥じゃ。」
と提唱されています。
『天台小止観』にはもっと詳しく用心が説かれています。
「坐禅を止めて定を出ようとするときに三事を調える方法は、もし坐禅を終ってまさに定を出ようとするときは、まずいままでひきしめていた心をとき放って気持ちを楽にし、つぎに口を開いて気を放ち、息が全身から意にしたがって外に布散していくと想うがよい。
そうしてから後で、微微に身を動かし、つぎに肩・胛(かたのほね)および手・臂・頭・頸などを動かし、つぎに両の足を動かして、みな柔らかならしめる。
しかもそれから後に両手であまねく全身の毛孔を摩擦する。
つぎに掌を摩擦して煖たかならしめ、それをもって両眼をおおい、そのなかで眼を開く。
そして体の熱い汗がやや止むのを待って、そこで自分の必要に応じて動くがよい。
もしそれらに注意しないと、坐禅はある程度うまくできたとしても、それを止めて禅を出るときにこれらの注意を欠くと、細かい要素がまだ散ぜずに体のなかに残っていて、頭の痛いことがあったり、体の節節の痛むこと風労のごときことがあったりする。
それでは後の坐禅のなかでも心がさわいでおちつかない。
これらの故に、坐禅を止めて定を出ようとするときは、つねにこれらにはよく注意しなければならない。
これを、定を出るときに身・息・心の三事を調える方法とする。
要するに、細なるものから麤なるものへと出るベきであるからである。」
と説かれています。
大東出版社の『天台小止観』にある関口真大先生の訳です。
「安詳として起つ」の「安詳」ですが、ごんべんの詳しいという字の「詳」を書く場合と、本によっては、しめすへんの「吉祥」の「祥」が書かれている場合があります。
「詳」という字を『漢辞海』で調べてみると、
「くわしい、つまびらか」という意味と、「落ち着いているさま、ゆったりとしているさま」という意味もあります。
『法華経』に、
「そのときに世尊は、三昧より安詳として起つ」という言葉があります。
修行道場などでは、坐禅したあとに、パッと立ち上がるようなことも多かったので、私などは長らく疑問に思っていました。
やはりこうして徐々に動いていった方がよろしいかと思います。
もっとも時と場合によってはすぐに動かないといけないこともありますので、臨機応変の対応は必要です。
最近行っている仰臥の禅でも、私なりに白隠禅師の内観の法を独自に工夫して行っていますが、仰臥の姿勢から立ち上がるときに時間をかけるようにしています。
できるだけゆっくり、しかも止まらないように時間をかけて起き上がるのです。
そうしないとせっかく仰臥で丹田を充実させていたのが、すぐに失われてしまいがちです。
慣れてくればそんなことで動じなくなりますが、はじめのうちは特に慎重にしないといけないと感じています。
禅定から出る時の工夫も大切であります。
それから、「出定の後も、一切時中、常に方便をなし、定力を護持すること嬰児を護するが如くせよ。即ち定力成し易からん。」とありますように、禅定を出てからも、一日中いつもその時その場に応じた方法を工夫して、禅定力を保持しなければなりません。
それはちょうど赤ん坊を育てるようにせよと説かれています。
そうすれば、禅定力は容易に完成できるというのです。
これには、やはり白隠禅師が説かれたように常に気海丹田に気を充たしておくことが手がかりになります。
心気を丹田に充たした状態で、日常の動作をしていくのであります。
気海丹田という身体的工夫を加えると、実習しやすいのであります。
日常のすべてが坐禅となるようにするのです。
横田南嶺