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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.07.09
今日の言葉

注意と意識

先日は甲野陽紀さんにお越しいただいて、講座を行ってもらいました。

甲野さんは、和器出版社から『身体は「わたし」を映す間鏡である』という著書を出されています。

そこに甲野さんのプロフィールがあります。

「身体技法研究者。

武術研究者・甲野善紀氏の武術指導のアシスタント、演劇制作スタッフなどを経験した後、 独立。

誰もができる日常動作の身体の動きをモチーフに、特定の分野や流儀、流派にとらわれない立場で身体技法の研究を始める。」

と書かれています。

私たちは、坐禅をすること、掃除をしたり料理をしたり草取りをしたりという日常の動作しかしないのですが、そのことを学ぶだけでも奥深いものがあります。

甲野さんは、身体の動きを、注意の向け方や言葉の使い方などとの関係から読み解くことをなされています。

今回は初めて甲野さんの講座を受ける方もいるので、基本の「一動作一注意」のはなしから始まりました。

「一動作一注意」というのは、甲野さんによると「ある動きをするときには一つのことに注意を向けることが大切」という意味です。

「たとえば「立つ」という動作でも、指先なら指先という一つに注意を向けて立つ場合と、いくつものことへ注意を向けて立つ場合では、明らかに身体の安定感が変わってきます。」

と著書には書かれています。

もう少し著書に書かれている言葉を参照します。

「私がこういう場面でみなさんにとくに注目してほしいと考え、言葉として表現していることは「注意の向け方」と「身体の動き」がどのように関係しているか、ということ。

「注意の向け方」というのは、「どこを目で見ているか」ということではなく、「どこに自分の注意を向けているか」ということです。

たとえば、電車を待つホームなどで何か考えごとをしているとき、目は漠然と周囲の様子をとらえていますが、注意はその「考えごと」に向いています。

考えごとは身体の内側ですることですから、こういうとき、私は「注意は身体の内側に向かっている」と考えます。

逆に、たとえば、学校の教室で試験問題を解いている学生さんが、窓から見える外の景色がどうにも気になつてしまって試験に身が入らない·······というような場合は、「注意が外に向かっている」ととらえます。

この「注意の向け方」と「身体」というのは多くの方が思っている以上に身体の内側で深く結びついていて、「注意をどこに向けていくか」によって、身体の安定感として端的に表れるような「動きの質」が大きく変わってくるのです。」

ということなのです。

注意するというのと、意識するというのと似ているようで異なります。

甲野さんは意識するというのは、頭の方に重きが置かれていて、注意は身体的な面が強いと仰っていました。

今回も手の内に注意を向けて立つことを行いました。

そうすると立つ感じが変わるのです。

注意と意識とはどう違うのか、講座のあとであれこれと考えてみました。

意識という言葉の意味はというと『広辞苑』で調べると、

「①〔仏〕(梵語mano-vijñāna)認識し、思考する心の働き。感覚的知覚に対して、純粋に内面的な精神活動。第六識。」

とあります。

はじめに仏教語としての意味が書かれています。

意識というのは、仏教に由来する言葉だったのです。

二番目に「(consciousness)状況や行動に関して何らかの気付き・自覚がある状態。」

とあります。

そして三番目に

「特に、社会意識または自己意識(自覚)。」があります。

それから四番目に「対象をそれとして気にかけること。感知すること。」という意味があって、「周囲の目を意識する」という用例があります。

それに対して注意はというと、『広辞苑』には、

「①気をつけること。気をくばること。留意。

②危険などにあわないように用心すること。警戒。

③相手に向かって、気をつけるように言うこと。

④〔心〕心の働きを高めるため、特定の対象に選択的・持続的に意識を集中させる状態。」

とあります。

意識というのは、対象をそれとして気にかけることという意味でよいかと思います。

それに対して注意は「特定の対象に選択的・持続的に意識を集中させる」ことです。

意識は「自分が今何かを体験しているということに気づいている状態」や、「主観的に何かを感じ取っている状態」を言います。

注意は、膨大な情報の中から、特定の対象に焦点を当てています。

意識は漠然としている一面があり、注意は対象がはっきりとしていると言えます。

それから甲野さんは、言葉を使うことによって身体の動きが変わるとも仰います。

「くっつく」という言葉を用いて試してみました。

相手と手の平と手の平を合わせて立ちます。

相手の手の平と自分の手の平が「くっつく」と言葉にすると、相手がどのように動いても手の平が離れることがありません。

ところが相手の手の平に「ついてゆく」という言葉にすると、これはすぐに離れてしまうのです。

くっつくというのは、その状態になって完了しています。

身を委ねているとも言えます。

ついてゆくというのは、ついてゆこうとする意識が働いてしまいます。

ついてゆこうとすると離れてしまうというのは面白いものです。

「おく」と「うごかさないように」という言葉によっても違います。

「おく」というのは対象そのものを左右前後上下に動かさない状態です。

「うごかさないように」というのは意識がはたらいてしまい、逆に動いてしまいます。

大転子をおくというと、とても腰が安定します。

それから踵の骨と土踏まずの境あたりを甲野先生は踵麓と名づけられていますが、ここに注意を向けると、坐っていても体が安定します。

これは坐禅のときに大いに役立つものであります。

踵麓をおくといって坐るととても安定するのです。

今回初めて教わったのは「中指麓」でした。

手の中指の付け根の骨の際あたりであります。

ここに注意を向けると肩が安定します。

それから仙骨解放というのも初めて教わりました。

甲野さんも最近気づかれたものだそうです。

私はよく、仙骨を意識してもらうために仙骨に手の平をあてて上下にこすってもらうようにしています。

甲野さんは左右にこするのであります。

そして仙骨を左右に開くように解放させるというのです。

これで腰の緊張がとれるのです。

とても安定します。

どうしても長い時間坐っていると腰のあたりが固まってしまうのですが、腰が楽になります。

かくして体の不思議をいろいろと楽しく学ぶことができました。

 
横田南嶺

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