お家元に聞く
祝聖というのは、毎月一日と十五日に、佛殿において今上天皇の聖寿万歳をお祈りする法要であります。
今上天皇の聖寿万歳を祈り、国民和楽、国家興隆、五穀豊穣、世界平和をお祈りしています。
そのあと、舎利殿に移って開山様にお経をあげます。
そうして修行道場のある宿龍殿で、円覚寺の山内の和尚様方と茶礼を致します。
茶礼というのは、「禅門において茶湯をふるまう礼法」と簡潔に、『禅学大辞典』には記されています。
ほんの一口のお茶を皆でいただくのであります。
なにか行事の打ち合わせや通知のあることもございますが、ほとんど無言の内に行われています。
先日も全く無言のうちに一碗のお茶をいただいて終わりでありました。
このような茶礼という儀式が禅寺ではよく行われています。
毎日のように坐禅堂では、お粥をいただいたあとに、禅堂にお祀りしている文殊さまにお茶を供え、そのあと皆で一口のお茶をいただくのであります。
また入制の大摂心の前などにも、みなで集まって茶礼をしています。
こういう時の茶礼は、総茶礼といって、特に丁寧に行っています。
総茶礼の時には、垂示といって、老師が修行僧たちに向かって修行の心構えなど話しています。
ふと考えると、一年にどれくらいの茶礼をしているのか、今までどれくらいの茶礼をしてきたのか、数え切れないほどであります。
それほどまでに禅寺ではお茶をいただくことは日常に溶け込んでいます。
祝聖の行事を終えて、新幹線に乗って京都に向かいました。
季刊『禅文化』の取材で、裏千家のお家元坐忘斎千宗室宗匠と対談するためであります。
裏千家の今日庵にうかがうのは久しぶりであります。
その日は、とても暑い日であり、禅文化研究所の方からは、タクシーを使うようにすすめられていましたが、時間が早めに着いたのと、歩いてゆきたいという思いもあって、地下鉄で今出川駅まで行って、そこから歩いて参りました。
京都の町は今から三十八年前に、建仁寺の修行僧でありましたので、よく托鉢をさせてもらっていました。
なんとなしに土地勘も残っていますので、だいたいこちらの方向だろうと思いながら、小川通りを目指して歩いてゆきました。
京都の町は碁盤の目のように整然としていますので、方角をしっかり定めていればだいだい間違えることはありません。
もう四十年近く以前に歩いた道を歩きたいという思いに駆られて歩いていました。
しかしながらそんな感慨に耽るよりも、体が暑さに反応して、汗が流れてきました。
裏千家今日庵に着いた時にはしたたり落ちるほどの汗になっていました。
玄関にはなんとお家元がお迎えくださっていて恐縮しました。
まだこちらは、法衣を整えてもいません。
玄関先の小部屋で、法衣を整え、絡子という略式の袈裟をつけて、新しい足袋に履き替えました。
今は舗装されている道路なので、道を歩いても悪天候でもなければ足袋が汚れることはほとんどないのですが、動中の足袋から、室内に入るには足袋を履き替えるのであります。
裏千家の今日庵に行くので、その日は真新しい足袋をおろしました。
新しい足袋にしてよかったとしみじみ思いました。
対談の前に、お家元が利休居士をお祀りしているお堂にご案内してくださったのでした。
まさに聖なる空間であります。
利休居士の尊像が生けるが如く鎮座されています。
こんなお部屋に入らせてもらうとは僥倖であります。
これは新しい足袋でないと入れないと思いました。
伝統のある建物で、冷房などはありませんので、まだ私は汗がしたたり落ちていたのでした。
毎日お使いになっているという井戸や、台所なども見せていただいて、それから対談の部屋に移りました。
対談の部屋は冷房の効いているところでした。
まずお抹茶とお菓子をいただきます。
お菓子をいただくに懐紙を出そうとしました。
今日は家元のところにうかがうので、懐紙も用意しなければと鞄に入れてきたのでしたが、玄関でお家元のお迎えを受けてから緊張してしまい、さて懐紙入れがどこにいったのやら見当たらずで、うろたえているとお菓子を運んでくださった方が、「どうぞそのまま召し上がりください」と言ってくださりホッとしました。
あとで鞄の中に懐紙が入っていたのを確認できたという愚かなことであります。
ややあってお家元がお入りになってお話をうかがいました。
お家元はお優しい表情で丁寧な言葉つかいでお話くださりましたが、その内容は実に奥深く、そして伝統を受け継がれてきた方の強い覚悟に満ちていました。
内容については、十月に発売予定の季刊『禅文化』誌に掲載されますので、ここでは控えさせてもらいます。
ただはじめに写真撮影をしながら、ご挨拶をさせてもらいました。
三十八年前、まだ修行僧だった私は、托鉢をしていて小川通りを歩くと必ず裏千家の兜門からお若い方が出てみえて中に入れてくださり、そこでおにぎりをいただいていました。
当時まだ二十三才で、朝はお粥だけでお腹が空いていて、裏千家でいただくおにぎりがおいしくて、今も忘れられませんと申し上げました。
あれから四十年近く経って、本日はこうして今日庵の中に入れていただいて、しかもお家元に直にお目にかかれるとは夢にも思っていませんでしたと申し上げました。
お家元はお笑いになりながら、子供の頃から雲水さんの托鉢の声が聞こえると、すぐに表に出て行ってお布施をした思い出を話してくださいました。
ものごころついた頃からお家元は、この伝統ある建物の中で、毎朝利休居士の尊像にお参りし、托鉢の修行僧にお布施をされてきたのであります。
お茶や禅が、もうその暮らしに馴染んで、そのお体に染みついておられるのであります。
私などのように外の世界から入ってきた者には及ばない何かを感じました。
裏千家の家元という重責を担うのですから、その苦労は察するにあまりあります。
私などには及びようもありません。
しかしながら、私はある頃から当代の坐忘斎お家元に尊敬の念を強く抱くようになっていました。
それは三十代で円覚寺僧堂の師家に就任した頃からであります。
その頃は、重責を担うことへの不安の駆られる毎日でありました。
当代のお家元はお生まれながらに重責を担っておられることを思うと、尊敬の念を強く抱くようになったのでした。
それがこうしてこんなご縁に恵まれるとは思いもしなかったことであります。
対談を終えて、兜門のところで記念撮影をさせてもらって帰路に着きました。
久しぶりにお家元にお目にかかり親しくお話を承り、これまた至福の思いでありました。
横田南嶺