魔多し
「身体が安らぎ、心の悩みが除かれて楽しくなる」道なのです。
『坐禅儀』には更に次のように説かれています。
筑摩書房の世界古典文学全集にある『坐禅儀』の訓注を参照します。
大森曹玄老師の訳であります。
「いまいった意味をよく理解して坐れば、身体はおのずから軽く安らかになり、精神は爽やかにしかも鋭敏になる。
正念がはっきりとしてくるから、その精神的食物のために心の力が増強され、静かに落ち着いて楽しくなってくる。」
と説かれています。
坐禅をすると、身心共に健やかに爽やかになってきます。
精神もよい意味で鋭敏になってきます。
それゆえによくまわりの物事にも気がつくようになるものです。
原文には、
「自然に四大軽安にして精神爽利に、正念分明にして法味神を資け、寂然として清楽ならん。」
とございます。
坐禅の深い味わいが、精神をよい方へと育ててくれます。
どこまでも落ちついて安らかで楽しいことになるのです。
「寂然清楽」というのはよい言葉であります。
更に
「もしそれによって自己の本性が開発されるなら、龍が水を得たように自由無礙の働きもできるだろうし、虎が山にいるような近寄りがたい威力も具わってくるであろう。」
と説かれています。
発明と書いて、禅では「ほつみょう」と読みます。
『禅学大辞典』には、「真理を明らかに徹見すること、悟りを得ること」と解説されています。
自己の本性が開発されるのです。
そうすると、大いに力を発揮することができるようになります。
そのことを、「龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たらん」と喩えています。
更に「また自性を開発できないまでも、風を利用して火を起すように、無駄な骨折りをせず、自然に自性を明らめる道が開けてくる。
ただ自分自身に納得がいき、確信がもてるようにするがいい。
けっして自分を偽って、いい加減なことをしてはいけない。」
と説かれています。
火をおこすのにちょうどよい風が吹いてくれると楽におこせます。
そのように、坐禅をしていると、身心が調って自己の本性が開発されやすくなるのです。
しかし、良いことばかりではありません。
『坐禅儀』には次のように説かれています。
「しかし世間には、好事、魔多しということもある。
修行が進むとそれに伴って、妨害するものも多くなり、順境や逆境、さまざまのことが現われてくる。
どんなことが現われようと、正念をしっかり据えて失いさえしなければ、どんなものでもとどめ礙げることはできない。
『楞厳経』、天台の『止観』、圭峰の『修証義』などに、詳しく修行を妨げる魔境のことが記されているから、思いがけない事態の起る前に、預め用心のために読んでおくがよかろう。」
というのです。
「好事魔多し」とは、『広辞苑』にも
「よいこと、うまくいきそうなことには、とかく邪魔がはいりやすいものである」と解説されています。
そもそも「魔」とは何でしょうか。
まず『広辞苑』で調べると、
「魔」は
①(梵語māra)〔仏〕修行や人の善事の妨害をなすもの。魔羅。また、不思議な力をもち、悪事をなすもの。
「好事魔多し」の用例があります。
②不思議な力。神秘的なもの。恐るべきもの。
「魔の海域」という用例があります。
③熱中して異常な行いをする者。「電話魔」の用例があります。
四つの魔と書いて「四魔」があります。
こちらも『広辞苑』には、
「四魔」
「〔仏〕衆生を悩ます四種の魔。
貪欲・瞋恚・愚痴などの煩悩が煩悩魔、
五蘊の和合から成る肉体が陰魔、
人の寿命を奪う死が死魔、
欲界の第六天の魔王が人間の心身を乱すのが他化自在天魔。」
と解説されています。
お釈迦様がお悟りを開きになる前にも魔の軍勢が襲ってきたと説かれています。
悪魔の軍勢とは次のようなものです。
「汝の第一軍は楽欲ぞ、第二軍は不快なり、第三軍は飢渇ぞ、第四軍は渇愛、第五軍はこれ懶惰、第六軍は怖畏ぞかし。
第七軍は疑なれや、第八軍は虚栄と剛情、第九の軍は名利にて、第十軍は自讃毀他なり。
悪魔よ、これは、 汝の軍、汝の武器なり。勇者は勝ちて折伏し、安きにこそは、至り得め。」
というのであります。
悪魔の軍勢というのは、第一には、楽しみにふけろうとする欲であります。
第二は、身心に感じる不快であります。
どれも心をかき乱すものです。
第三の飢えと渇きもまた心をかき乱すものです。
第五の懶惰というのは、ものぐさでだらけて怠ける心であります。
第六の怖畏というのは恐れであります。
第七の疑いというのは、この道でいいのだろうかと疑心暗鬼になることです。
第八の虚栄と強情とは、見栄を張ったり、かたくなな心であります。
第九は名利を求める心です。
第十の自讃毀他というのは、自分のことを誇り他人をさげすむことであります。
これら皆が魔となって修行を妨げるのであります。
皆自分の心が引き起こすものにほかなりません。
のちにお釈迦さまが『法句経』に
「戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。」(ダンマパダ103)
と仰せになっているように、自己に打つ勝つしかないのであります。
お釈迦さまは、どこまでも毅然として
「大いなる象に乗り、全軍を率いて来たりし悪魔よ、いざ戦え、われ勝たん。汝は我をみだすことなし。」と言っては戦い、そして魔に打ち勝ったのでした。
とうとう悪魔はこの戦いに勝ち目のないのを見て、悄然として悲しんだのでした。
『坐禅儀』にありますように「どんなことが現われようと、正念をしっかり据えて失いさえしなければ、どんなものでもとどめ礙げることはできない」のであります。
やはり正しく坐禅して魔に打ち克ってゆくことが修行なのであります。
横田南嶺