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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.06.29
今日の言葉

敦煌文書

先日は小川隆先生にお越しいただいて禅宗史の講義をしていただきました。

数回にわたって禅宗の歴史の講義をお願いしたのでした。

まずはじめに「序説」として禅宗とはどのようなものなか、定義を教えてくださいました。

禅というのは、時代によっていろいろです。

唐の時代には、唐の時代の独自の禅があり、宋の時代になるとまた独自の禅思想が発達します。

時代によってもさまざまですし、その人によってもさまざまな特徴があるのです。

ではいったい何が禅宗なのか、考えると難しいのです。

そこを小川先生は、次の四つにまとめてくださっています。

禅宗の定義
①自己の心こそが仏であるという活きた事実を、
②ナマ身の自己と目前の現実に即しつつ、
③問答を通して求道者自身に自ら悟らせる宗教。 
④しかし、その悟りは、やがて忘れ去られねばならない。

という四つなのです。

禅宗というからには、この四つは共通してあるものです。

それからその禅宗の特徴として三つをあげてくださいました。

それは
(一)「系譜」の宗教
(二)「清規」の宗教 
(三)「問答」の宗教

の三つであります。

小川先生はいつもよく禅宗というのは教祖と聖典のない宗教だとおっしゃいます。

そのかわり代々教えが伝わっている系譜が信仰の対象となっているのです。

小川先生は分かりやすい譬えで、ジャイアンツの選手が長嶋さんを拝むようなものだと説明してくれました。

長嶋さんも選手の一員でした。

ただ自分たちの時代よりもいち早く野球に目覚めて大いに活躍し野球を世に広めて下さった方なのです。

そのことに敬意を表しているのです。

禅の祖師方も自分たちよりも前の時代に、すぐれた心境に達して大いに活躍されたことに敬意を表しているのです。

それから清規という独自の規律を重んじるのが特徴であります。

禅には精神的に自由奔放な一面もありますが、日常の暮らしは規則に則ったものなのです。

そして問答によって、自らの心こそが仏であると自覚するのです。

そのあと「禅宗の二種類の歴史」を解説してくださいました。

まずは「伝来底」の歴史です。

これは私たちが、いつも逓代伝法でお唱えしている祖師方の系譜であります。

お釈迦様が霊山会上で花を拈じて迦葉尊者に法を伝えて代々伝わって二十八代目が達磨大師であります。

達磨大師から中国において代々伝えられて六代目が慧能禅師であります。

慧能禅師から南嶽禅師と青原禅師のお二人がでました。

南嶽禅師から馬祖禅師、百丈禅師、黄檗禅師、そして臨済禅師へと伝わるのであります。

それからもうひとつの歴史として、「二十世紀の中国禅研究」についてお話くださいました。

一九〇〇年に敦煌文献が発見されたことから話が始まりました。

ここから小川先生のお話に一層熱がこもって、ほとんど敦煌の話で時間が来てしまいました。

敦煌文書については岩波書店の『仏教辞典』を参考にしてみます。

まずは「20世紀初頭、敦煌から発見された数万点におよぶ古文書」なのです。

「内容は約九割が仏教文献で、その他に道教・景教・マニ教・儒家の経典をはじめ、歴史・地理・社会・経済・法律・政治・文学・芸術など実に多岐にわたる貴重な資料が含まれている。」というのです。

それから「文献の筆写された年代は、5世紀から11世紀の初頭までの600年近くにわたる」ものです。

小川先生がお話くださったのは一九〇〇年、敦煌莫高窟千仏洞の石室管理人の王円籙という道教のお坊さんが見つけたことでした。

第一六窟の壁面に封印された小さな石窟が存在し、中に膨大な古文書が収蔵されていたのでした。

これを第一七窟といいます。

『仏教辞典』によると「この窟が封印されたのは、約900年前の11世紀初頭であることがわかった。

誰がどのような理由で封印したかに関しては、当初、西夏侵攻の影響によるものだとする説が有力であったが、

近年では収蔵文書には残巻・断簡が多いことから不要になった古文書を一室に集めたという「廃棄物処理」説が主流になりつつある。」

と書かれています。

井上靖の小説『敦煌』がもとになった映画があって、その影響で私も西夏の侵略から経典を守ったと思っていました。

今日では諸説あるようです。

「敦煌文書の蒐集に関しては、1907年のイギリスの探検隊のオーレル‐スタインを皮切りに、1908年にフランスの探検隊のポール‐ペリオ、1910年には清朝政府、1912年には日本の大谷光瑞を隊長とする大谷探検隊の一員であった橘瑞超と吉川小一郎(よしかわこいちろう)、1914年にはロシアの仏教学者オルデンブルグなどによって次々とおこなわれた」のであります。

一九二六年に胡適先生が渡欧して、神会はじめ初期禅宗の文献を多数発見されました。

一九三〇年に『神会和尚遺集』が出版されました。

一九二七年頃には鈴木大拙先生も敦煌文献に注意を向けました。

その頃、大拙先生の『禅論文集』第一巻がロンドンで出版され、海外で高く評価されました。

しかし、この論文が新出の敦煌文献を用いていないことを批判する短評が発表されました。

これを大拙先生は胡適先生によるものと思われたそうです。

実際にはアーサー・ウイリーだったのでした。

大拙先生は胡適先生に手紙を書いて敦煌文献を見せてほしいと願いました。

胡適先生はロンドンで撮影してきた敦煌文書の写しを快く提供してくれたのでした。
そして一九三一年には、大拙先生が「『楞伽師資記』とその内容概観」を発表されています。

胡適先生と大拙先生のやりとりなどを小川先生は熱く語ってくださいました。

そして二〇世紀の後半になって入矢義高先生、柳田聖山先生によって初期禅宗・唐五代の語録の学問的解読が行われるようになったのでした。

その日は達摩の二入四行のお話の予定だったのでしたが、達摩の話は次回となりました。

これからがますます楽しみのご講義であります。

 
横田南嶺

敦煌文書

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