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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.06.22
今日の言葉

無事は容易ではない

新しく出版した、『無駄骨を折る』に、「腕組み」という章があります。

円覚寺で開かれた坐禅会で話をした時のことを書いています。

「最前列に坐っていた方が、腕組みをして聞いておられました。

こちらの修行が未熟なのだと思いますが、こういうのは、結構気になるものです。

こちらの話にご不満なのかな、なにかお気に入らないのかなと、不安になったりしてしまいます。

この頃は、こういう状況にも多少慣れてきて、たぶんご機嫌が悪いのだろうと気にしないで話をすることが出来るようになってきました。

ちょうどその同じ坐禅会で、禅寺の坐禅会には、なぜたくさんの規則があるのですかと、ある方から質問を受けました。

たしかに、たくさんの規則があって、禅と言えば自由な世界を想像するのにどうしてだろうかと思うのでしょう。

たとえば、腕組みをして話を聞くと話をする方がやりにくくなるので、話を聞くときは、腕組みをしないようにと、いうふうにして規則ができたのだと思います。

相手を不愉快にしないように心づかいをするのが、規則の出来上がるおおもとだと思っています。

規則を守らなければならないと思うと窮屈かもしれませんが、相手に対する心づかいを学ぶのだと思えば、よろしいのではないでしょうか。」

と書いています。

そんなことを書いのを先日思い出しました。

興禅護国会というのがあって、その会のご依頼で、都内で『臨済録』の講義を始めています。

先日は二回目でありました。

こちらは法衣を着て、正装して講話に臨みます。

『臨済録』を講義しますので、祖師の語録は風呂敷に包んで持参します。

恭しくおし頂いて『臨済録』の講義をしていましたら、ご年配の方が腕組みをなさっているのが目に入りました。

やはり気になるものであります。

なにかお気に入らないのか、こちらの話にご不満があるのかと思ってしまいます。

やんわりと、『無駄骨を折る』という本に腕組みのことを書いていますとお話すると、穏やかに腕組みを外されましたので、ホッとしたのでした。

大学で講義もしていますので、若い学生さんたちの講義を聴く態度に驚くこともあります。

いろんなことには慣れていますが、聴く姿勢というのも大事にしたいものです。

禅寺では、老師の提唱を聴くのに威儀を正して坐禅の姿勢で拝聴する習慣があります。

そんなことまで強要するつもりはありませんが、『臨済録』という祖師の語録を読むので、慎み深く聴く姿勢を持ちたいものであります。

先日は、その会の主催者の方も体調不良でお休みで、残念でありました。

『臨済録』に繰り返し説かれているのは「無事」ということであります。

「無事」とは、外に向かって求める心がやんだことを言います。

このことを『臨済録』では繰り返し説かれています。

岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を引用します。

「諸君、時のたつのは惜しい。

それだのに、君たちはわき道にそれてせかせかと、それ禅だそれ仏道だと、記号や言葉を目当てにし、仏を求め祖師を求め、〔いわゆる〕善知識を求めて憶測を加えようとする。

間違ってはいけないぞ、諸君。

君たちにはちゃんとひとりの主人公がある。

このうえ何を求めようというのだ。

自らの光を外へ照らし向けてみよ。

古人はここを、『演若達多は自分の頭を失って探し廻ったが、探す心が止まったら無事安泰』と言っている。」

「師は皆に說いて言った、「諸君、正しい見地をつかんで天下をのし歩き、そこいらの狐つき禅坊主どもに惑わされぬことが絕対肝要だ。なにごともしない人こそが高貴の人だ。絕対に計らいをしてはならぬ。ただあるがままであればよい。君たちは、わき道の方へ探して行って手助けを得ようとする。

大まちがいだ。

君たちは仏を求めようとするが、仏とはただの名前である。

君たちはいったいその求め廻っている当人〔が誰であるか〕を知っているか。

三世十方の仏や祖師が世に出られたのも、やはり法を求めんがためであった。

今の修行者諸君も、やはり法を求めんがためだ。

法を得たら、それで終りだ。得られねば、今まで通り五道の輪廻を繰り返す。」

「諸君、偉丈夫たる者は、今こそ自らが本来無事の人であると知るはずだ。

残念ながら君たちはそれを信じきれないために、外に向ってせかせかと求めまわり、頭を見失って更に頭を探すという愚をやめることができない。」

「師は皆に說いて言った、「今、仏道を学ぼうとする人たちは、ともかく自らを信じなくてはならぬ。

決して自己の外に求めるな。

そんなことをしても、あのくだらぬ型に乗っかるだけで、邪正を見分けることは全然できぬ。

祖師がどうの、仏がどうのというのは、すべて経典の文句の上だけのことだ。」

という次第であります。

こんな言葉が繰り返し説かれています。

『臨済録』をわざわざ聴こうと思ってお集まりいただいた方には申し訳ないのですが、『臨済録』を聴きに行こうということなどやめて無事であることを説いているのであります。

その無事であることを自覚するためにも『臨済録』を聴きに来ているのかもしれません。

「無事」に徹するということは、容易ではありません。

 
横田南嶺

無事は容易ではない

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