大きいことはいいことか?
なんども繰り返されると耳に残ります。
そして頭でも大きいことはいいことのように思ってしまいます。
『信心銘』の冒頭の言葉を、現代語訳にしたものを紹介します。
『世界古典文学全集36b禅家語録2』(筑摩書房)にある大森曹玄老師の訳であります。
「至極の大道は、すぐそこにあって、かれこれと七面倒くさいものではない。ただ選り好みさえしなければ、それでよいのである。選り好みをすると、好きなものは愛し、いやなものは憎む念が起って心の鏡がくもる。それさえなければ、至道はきわめてはっきりと包みかくすことなく現われてくる。
けれども毛筋一本ほどでも分別の念があると、至道か邪道か、天と地ほどの差を生ずる。だから、至道を目の前に見たいと思うなら、順とか逆とか、善とか悪とか、二元対立の見が少しでもあってはいけない。」
というのであります。
また「一切の両辺、妄りに自ら斟酌す」という言葉があります。
これは「押しなべてすべての二元の対立は、自己中心の分別から生まれるのである」ということです。
善と悪、大と小、すべての二元は自ら作り出したものであります。
真実の大道には、そんな差別はありません。
『信心銘』には「極小は大に同じ、境界を忘絶す。極大は小に同じ、辺表を見ず。」という言葉もあります。
「分別の世界では大小の差があるが、「この宗」では、大小のへりきりはない。境界を絶し、辺表を越えたものである」ということです。
山田無文老師はここのところを次のように提唱されています。
「この『信心銘』では、すべて何事も対立にとらわれてはいかんということを、あらゆる角度から、あらゆるものを比較して繰り返し繰り返し説かれておるのでありまして、ここでも「小」と「大」という対立について示されております。
小さいと大きいということも、これまた人間のとらわれで、悟りの眼から見るならば、小もなければ大もないのです。
ここでは「極小」とありますが、昔は「極微」と言い、今日ならば「アトム」とでも言いますか、原子のことでありまして、その宇宙で一番小さいものを、仏教ではさように申しておるのであります。
現在では原子が一番小さいものだということになっておりますが、それは原子を他のものと比べるから「小さい」 と言えるのであって、原子一つだけですと、小さいも大きいもありません。
何か他のものと区別する境を設けるから、他のものと比較する境界線を引くから、大きいものに対して小さいということが言えるわけであり、その境さえ忘れきってしまえば、大きいも小さいもあるはずがありません。
鏡の前には富士山は大きいことはありませんし、米粒が小さいこともありません。現象として見る時、鏡の前には富士山も米粒も同じことです。
『維摩経』には、「須弥の高広を以て芥子の中に内るるに、増減する所無し、須弥山ほどのあの大きな山が小さな芥子粒の中に入っても、入った芥子粒はふくれもはちきれもしない」と、こういう言葉があります。」
と説かれています。
そのあとこんな禅僧の逸話を紹介されています。
「昔、智蔵という坊さんに向かってある学者が、「仏教はどうもええかげんな嘘をつくので困る。
『須弥の高広を以て芥子の中に内るるに、増減する所無し』、須弥山の中に芥子粒が入るというのならあたりまえの話で分かるが、芥子粒の中に須弥山が入る。
そういう途方もないホラを吹くから困る」となじったら、智蔵和尚、「あなたは大変な学者で、世間ではよく万巻の書を読んでおられると言われておりますが、そりゃ本当ですかナ」、
「いやー、そう言われるとお恥ずかしい。まあたいていの本は読んどりますワイ」、
「ホー、しかしあなたのその椰子の実くらいよりない頭の中に、ようそんな万巻の書が入りましたナ」。
こう言われたら、さすがの学者先生も黙り込んでしまって、グウの音も出なかったという話がありますが、実体のない、仮名にすぎない大小を超えた、大小なんぞは忘れきった自由な世界が、悟りの世界でなければなりません。」
というのであります。
人の体の血管をすべて合わせると、なんと地球二周半にもなるということを何かで読んだ記憶があります。
人の体型などによって違いはありましょうが、ずいぶんと長いものだそうです。
血管を一本につなぐと、一〇から一二万キロにもなるそうです。
地球の赤道の周囲が四万キロだそうですので、二周半ほどになります。
そんな長い長い血管が、どのようにしてこの身体の中におさまっているのか不思議であります。
心臓が送り出す血液の量は、どのくらいの量になるのでしょうか。
一分間に心臓が送り出す血液の量はだいたい約五〜六リットルだそうです。
五〇〇ミリリットルペットボトルで言うと、一〇〜一二本です。
1日あたりでは約七二〇〇リットルで、ペットボトルにすると五〇〇ミリリットルのペットボトル約一四四〇〇本になります。
人間が八十年生きたとすると、その量は二億一千万リットルにも及びます。
大型石油タンカーは25万トンを積むというので、それは二億五千リットルになります。
ですから人間が八〇年生きたとすれば、石油タンカー一隻分に相当しますので、この小さな身体に、あの大きな石油タンカーを積んでいるようなものです。
よく「一つの細胞のDNAには、百科事典三〇〇〇冊分の情報が詰まっている」といわれます。
一細胞のDNAの情報量は、百科事典三千冊分になるのです。
それが人間の身体には、何十兆もの細胞があるのです。
実に小さいものの中に無限のものが入っています。
一粒の砂に世界を見、
一輪の野の花に天国を見る
手のひらに無限をつかみ、
一瞬のうちに永遠をとらえる
とは英国の詩人ウイリアム・ブレイクの詩であります。
大も小もない世界であります。
それは一即一切、一切即一とも表現します。
大だの小だのと比べない世界であります。
横田南嶺