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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.06.08
今日の言葉

二つの分けない世界

この夏期講座で信心銘の講義を終えました。

信心銘では、一貫して二つに分けない世界を説いています。

信心銘はまずは「至道は難きこと無し」という一句から始まります。

「至道」とは至極の大道をいいます。

道に至るということではありません。

究極の道であります。

その究極の道というものは、本来、難しいものではないというのであります。

次に信心銘では

「唯だ揀択を嫌う」と説かれています。

揀択は区別することです。

えりわけることを言います。

揀は選ぶ、択も選ぶです。

「揀択」は、俗に「えりきらい」という言葉で表わされます。

ああしたらいいだろうか、こうしたらいいだろうか、ああでもなければこうでもないと考えたらもう至道ではないのです。

人間のはからい、分別をつけてはならないというところです。

古い注釈書には、「迷悟凡聖を揀択し、自ら異見の岐路に迷う」と註釈されています。

そのあとに「但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり」とあります。

「憎愛」というのは憎いと可愛いという思いです。

それがなくなれば、真実の道ははっきりとあきらかになるのであります。

ところが「毫釐も差有れば、天地懸かに隔たる」です。

「毫釐の差は千里」という謬があります。

初めは少しの違いだが終りには大きな相違を生ずることをいいます。

毫釐は、ほんのわずかであることです。

ほんのわずかな憎愛が加わっても、そこに不純なものがいささかでも加わると、「天地懸かに隔たる」、天と地との違いほどかけ離れてきます。

みな本心は仏の心であるのに、一念の迷いによって地獄を作り出すこともあり、天上界に至ることもあり、天地の差が出てくるというのであります。

今回の講座では
「迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪無し。
一切の二辺は、妄りに自から斟酌す。」

という一節がありました。

「心を見失うから寂と乱の対立を生み出すが、気付けば何の好し悪しもない。
およそ対立なるものは、わけもなくこちらが物をはかるからである。」

という意味であります。

現代語訳は、筑摩書房『禅の語録16 信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀』によっています。

またこの本では、
「悟れば好悪無し」という「好悪」に「こうお」とルビが振っていますので、私も何気なしにそのように読んでいました。

「好悪」というと、漢和辞典には、「好き、きらい。好むことと、憎むこと」と解説されています。

しかし、これは「こうお」ではなく「こうあく」と読むべきだと小川隆先生からご教示いただきました。

「わるい」という形容詞の意味では「あく」と読んで、「にくむ」という動詞として読むときには「お」と読むのであります。

訳文でも「気付けば何の好し悪しもない」となっています。

「好し悪し」という意味ですから「こうあく」なのであります。

更に「動を止むれば動無く、止を動ずれば止無し、」

という一節があります。

山田無文老師は「「動く」ということ、車が動いておると言いますけれども、ブレーキを踏んで車をピタッと止めたら、もう動くということはなくなります。

「止まる」ということ、車が止まっとると言いますけれども、エンジンを動かせば走りだして、止まるということはなくなります。

「動く」と言うても「止まる」と言うても、それは一時の現象にすぎず、本当にあるのではないのですから、とらわれることはありません。

動いておるものも止めれば動くものはなくなるし、止まっておるものも動かせば止まることはなくなる。

動も止も本来あるものではない。

どちらも仮りの相、しばらくの相なのですから、そんな仮りのものにとらわれることはありません。」

と説かれています。

小川先生に今回もイス坐禅を体験していただいたのですが、今回こんなことをおっしゃってくださいました。

「イスの坐禅で、坐っているのは終わりの方のすこしの間だと思っていたけれども、実は、その前の体操の時から坐禅で、大きな運動からだんだん小さな動きになっていって、知らず知らずにうちに身体が調って気がついたら既に坐禅の状態になっていた」というように表現してくれていました。

動くと止まるとの隔ても本来ないものです。

坐禅というとじっとして動かないように思われますが、呼吸をしていますので筋肉の収縮と弛緩という動きは連綿として絶えることはありません。

動きが小さいから止まっているように見えるだけであります。

そうみてゆけば、動いているのもまた坐禅なのであります。

静と動という二つに分けることはないのであります。

「真如法界は、他無く自無し。
急に相応せんと要せば、唯不二と言う。
不二なれば皆同じ、包容せずということ無し。
十方の智者、皆此の宗に入る。」

という一節があります。

「真なる世界は、相手もなければ自分もない。
さしせまってそれにピタリでありたいなら、ただ相対であるなと言うばかりだ。
相対でないからすべて一つであり、そこに包みこまぬものはない。
世界中の智者は、誰でもこの原理に帰着する。」

という意味です。

この二つに分けない世界は、一切を包みこむ包容力をもっています。

二つに分けて比べてお互いは苦しみを作り出しています。

信心銘を読むと、二つに分けない世界を味わうことができます。

 
横田南嶺

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