喜びも瞋りも
臨済録を学ぶ勉強会で、始まって十年が過ぎて、また新たなスタートであります。
小川隆先生の『宗門武庫』の講義と、私の拙い『臨済録』の講義であります。
小川先生のご講義はいつもながら綿密な資料をもとにして、縦横無尽に、基礎的な文法から、分かりやすい比喩を用いながらお話してくださいます。
今回とりあげてくださった一段について、あらましをご紹介します。
まずは登場人物ですが、廬山の棲賢寺に住しておられた暁舜禅師であります。
とてもご立派な禅師でありました。
そしてもう一人の禅僧は、大覚禅師であります。
この禅師も立派な方で仁宗皇帝の帰依を受けて、東京の浄因寺に住しておられました。
その淨因寺というのは、仁宗皇帝が都開封の邸宅を喜捨して建てた禅院でありました。
大覚禅師はその御開山だったのです。
そしてそのお二人の関係はというと、かつて修行時代に大覚禅師は、暁舜禅師にも参禅していたというのでした。
大覚禅師が嗣法したのは別の方ですが、大覚禅師にとって暁舜禅師は参禅修行した師でもあったのです。
暁舜禅師は棲賢寺に、そして大覚禅師は浄因寺に住しておられたころ、事件が起こりました。
暁舜禅師は棲賢寺のある地方の役人の怒りをかってしまい、なんと僧籍を奪われて還俗させられてしまいました。
これは、地方の役人に賄賂を渡す習慣があったのを、暁舜禅師はお寺の貴重な財産をそのようなことに使うわけにはいかないと拒んだためだったというのです。
こういう話をきくととんでもない役人だと思いますが、その当時は今のような犯罪だという意識はなく、習慣化していたのだと小川先生は解説してくださいました。
古典を読んでいるときに気をつけないといけないのは、現代の価値観でその当時の文献を読んでしまうことです。
その点も丁寧にご解説してくださるのでたすかります。
またこの頃のお寺は特に官寺の場合、行政との関わりが密接でありました。
住持になるというのも役人が任命するのでありました。
暁舜禅師がそのような目にあっていることを耳にした大覚禅師は、かつて参禅した恩師でありますので、迎えの者を出して暁舜禅師をご自身の浄因寺に迎えました。
そして住職の正式の部屋を暁舜禅師に与えて住んでもらい、自分は控えの部屋に住んでいたのでした。
それほどまでに暁舜禅師のことを尊敬していたのでした。
その頃に、仁宗皇帝は度々浄因寺を訪ねては、大覚禅師に仏道について教えをうけていました。
しかし、大覚禅師は暁舜禅師のことを一言も話しませんでした。
この辺がなかなかできないことであります。
小川先生も普通ならば、大覚禅師は仁宗皇帝の信任が厚いので、ことの次第を話せば、皇帝のお力で、その役人に命じて暁舜禅師をもとの棲賢寺に戻させることは容易なことでありますが、あえてしなかったのが賢明なところだとおっしゃっていました。
もしそのような力を利用すれば、その地方の役人の怨みを買ってしまうことになります。
そうしますと、またいつ大覚禅師の身に降りかかってくるか分かりません。
大覚禅師にはそのような用心があったのです。
その点暁舜禅師はご立派な禅師には違いがないのですが、役人の怒りをかってしまい、還俗させられるとは思慮が足りなかったのだと、大覚禅師は語っておられるのであります。
そのようにして浄因寺にお迎えしてお仕えしていた頃のことです。
仁宗皇帝の御孫にあたる嘉王が浄因寺に来てお坊さんたちの食事の供養をしていました。
そのときに大覚禅師がたいそう恭しく暁舜禅師にお仕えしているさまを見ました。
そして嘉王は帰ってそのことを仁宗皇帝に申し上げました。
仁宗皇帝は、自分が尊敬している大覚禅師がそれほどまでお仕えしている暁舜禅師とはどのような人物なのかを確かめようと、禅師を宮中に呼びました。
そして、ことの次第を確かめられたのです。
仁宗皇帝は「すぐれた風韻を具えた、まことの超俗の士である」と暁舜禅師に会って褒め称えたのでした。
そして扇の上に「暁舜をもとの僧の身にもどし、特別の命を以て再び棲賢の住持となす」と書きつけて与えました。
さらに紫の衣と銀の応量器をも賜わったのでした。
さていよいよ暁舜禅師が棲賢寺にお帰りになるとなって、ヒヤヒヤしていた者がいました。
それは暁舜禅師が、棲賢寺を出て行かれるときのこと、暁舜禅師を籠にのせてかついでいくように言われていた二人の人足であります。
二人の人足は、しばらく籠をかついで「すでに、わしらの寺の長老でもないのに、そう遠くまで送ってゆくこともあるまい」といってなんと途中で籠を放り出して引き上げてしまったのでした。
そんなことをしてしまった禅師がまた住持となってお戻りになるのです。
その二人にしてみれば、どんな目に遭うか分かりませんので気が気でありません。
しかし暁舜禅師は、棲賢寺にもどるにあたって人をやってその二人を慰めたのでした。
「あの時にあなた方のしたことは、もっともなことだ。ともかく安心しなさい。懼れることはありません」と伝えたというのです。
再び棲賢寺にお入りになるときに、偈を作られました。
この偈の訳は小川先生の文章を引用させてもらいます。
「無実の罪で讒言されて いわれなく災いに見舞われ
半年あまり 俗人の身となった
今日 再びこの“三峽の寺”こと棲賢寺に帰り来り
その喜びはいかばかりか また その憤りはいかばかりか」
というのであります。
結句は、「幾多(いくば)くか歓喜し幾多(いくば)くか嗔(いか)る」というものです。
「道韻」という言葉が印象に残りました。
仁宗皇帝が、暁舜禅師を宮中に召されて会われた時に「道韻奇偉、真に山林の達士なり」仰せになったのです。
小川先生は、「すぐれた風韻を具えた、まことの超俗の士である」と訳されました。
すぐれた風韻というのです。
風格というか、品格というものでしょう。
長年の修行がその人格ににじみでているものであります。
ただ小川先生は用例で、宏智禅師が、すでに出家する前に「此の子、道韻勝ること甚し、塵埃中の人に非ず」と評されていたことを教えてくださいました。
その人が生まれながらに具えている風格という意味もあるのです。
それから憤りはいかばかりというのは、単に自分を還俗させた役人だけでなく、籠を途中で捨てた者や、住持の職を退いたらとたんに態度を変えた者たちへのものもあったろうと解説してくださっていました。
かつての恩義を忘れずに自らの寺に迎えてお仕えした大覚禅師の思慮深く、そして情愛の満ちた人格にも心引かれました。
禅の修行をして高い理想を追い求めながらもしかも現実の世の中を生き抜いてゆく禅僧の姿を垣間見た思いでありました。
横田南嶺