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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.06.01
今日の言葉

瓢鮎図のこたえ

早くも六月となりました。

五月の末に、花園大学の創立記念日の公開対談で、佐々木丞平先生と対談をさせてもらいました。

佐々木先生は京都国立博物館の館長を十六年もお務めになった方であります。

昨年大学の歴史博物館の館長に就任していただいたのでした。

対談は「日本の絵画にみる禅のこころ」という題であります。

佐々木先生はあらかじめパワーポイントで資料を作ってくださっていました。

一番はじめの資料は瓢鮎図でした。

瓢鮎図は、如拙の水墨画です。

「将軍足利義持の命により、瓢簞で鮎(なまず」を押さえるという禅の公案を描く。大岳周崇ほか30人の禅僧の賛を伴う。1415年(応永22)以前の作。妙心寺退蔵院蔵。」と『広辞苑』には解説されています。

如拙は「室町前期、応永(1394~1428)頃の京都相国寺の画僧。日本における水墨画の開拓者の一人。」であります。

はじめに絵としての瓢鮎図を佐々木先生が解説してくださいました。

今の瓢鮎図は掛軸になっていて、上半分に序と賛、下半分に絵が描かれています。

しかし元々は将軍足利義持のついたての表裏に絵と賛がそれぞれ表されていたものだというのです。

遠景には山々が見え、近くに竹が生えています。

川の流れの中を泳ぐなまずと、それを危なっかしい手つきでおさえようとする人物が描かれています。

中国の南宋の画風を受け継いでいるのですが、佐々木先生は朝鮮の絵の影響もあるとご指摘されていました。

大岳周崇の序文には、

「空を飛ぶものはイグルミでからめとり、水中を泳ぐものは網でとらえる、これが漁や猟の常法である。

中がうつろで丸くころころした瓢箪で鱗がなくネバネバした鮎を深い泥水の中で抑えつけることなどいったいできるであろうか」と書かれています。

佐々木先生からははじめに、これは禅の公案とみていいのかと聞かれました。

これは足利義持が如拙にこういう絵を描いてほしいと頼まれたのですから、この問題を取り上げているので、これは禅の問題、公案とみてよいと思いますと答えました。

公案というのはそう簡単に答えの出るものではありません。

この瓢鮎図の絵のように瓢箪でなまずをおさえようとするようなもので、いくらやってもうまくゆきません。

何度も何度もやってとうとう精魂尽き果てて、なにもとらえるものではないことに気がつくのですと申し上げました。

そして公案で問題としているのは「こころ」ですと伝えました。

禅の教えは「心こそ佛である」と説きます。

そのこころは何か、小さな身体におさまっているのか、頭の中にあるのか、心臓なのか、あれこれ考えても見つかるものではありません。

でもあえてそれを探させます。

必死になって探して最後に探すことも手放して広い広い心の中にはじめから充たされていたのだと気がつくのであります。

それからその公案に関連して佐々木先生からは禅は「不立文字」といって言葉を否定しながら、どうしてあんなたくさんの禅の語録が残っていて言葉を使うのか、矛盾ではないかと聞かれました。

あえてたくさんの言葉を用いて、言葉では表現しきれない世界を伝えるのですと申し上げました。

そしてその言葉にならない世界に触れたなら、また再び言葉にならない世界を伝えようとして言葉を用いるのですと伝えました。

そんな話をして瓢鮎図の次に示されたのは池大雅の柳下童子図でありました。

池大雅は「江戸中期の文人画家。日本文人画の大成者。名は無名(ありな)。号は九霞山樵・霞樵・大雅堂など。京都の人。柳沢淇園・祇園南海の影響を受け、中国南宗画を独学した。さらに漢画や琳派、西洋画の表現をも取り入れ、のびやかな描線と明快な色彩による奥深い空間表現を確立。書にもすぐれた。」と『広辞苑』に解説されています。

瓢鮎図を書いた如拙よりも三百年もあとの方であります。

この絵には、真ん中に粗末な橋があってその橋の上から水面を覗き込む二人の童子が描かれています。

水面を挟んで、向こう岸には柳の葉が垂れ、こちらの岸には笹の葉が繁っています。

そして絵の左下に「擬如拙道人筆」と書かれているのです。

私はこのことから、如拙の書いた絵の筆致や技法にならったものだと思っていました。

佐々木先生もとうぜんその如拙の技法を受け継いでいることを指摘されました。

そして更に佐々木先生は、これは如拙の瓢鮎図の公案に対する池大雅の答えが表されているのではないかというのです。

如拙の絵では、瓢箪でなまずをおさえようとしています。

できないことを必死になっているのでしょう。

大雅の絵では、童子が池の中の魚を素手で掴もうとしているというのです。

もっとも素手で生きた魚を捕まえられるものではありません。

できなくはないでしょうが容易ではありません。

しかし、童子はそれをつかまえようとして楽しんでいるのです。

強いて言うならばつかまえられないことを承知の上で楽しんでいるのです。

そこの苦悩はありません。

山も川も魚も童子もみなその絵の中で許されていて、楽しんで和らいでいるのです。

この絵が瓢鮎図に対する答えとみたらどうかというご下問でありました。

この見方には私も驚きました。

そしてこれが瓢鮎図に対する池大雅の答えだとすれば、これは素晴らしい見解ですと申し上げたのでした。

池大雅も白隠禅師に参禅されていたのでした。

佐々木先生は禅については学んで来なかったとご謙遜していらっしゃいましたが、禅についても深い炯眼をお持ちだとわかりました。

瓢鮎図も主題は「こころ」です。

こころはつかまえようにもつかまえられません。

しかし、こころは「目には見られず天地一杯」であります。

その天地一杯のこころの中に、山あり、川あり、川に魚あり、無心で戯れる童子ありなのです。

それらがすべて見事な調和の中にあるのです。

これが瓢鮎図の答えとみたらいかがでしょうか。

 
横田南嶺

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