無駄骨を折る
それはとある出版社の編集の方でありました。
草思社といいます。
今までご縁の無い出版社であります。
私が毎日書いて公開している文章を読んでくださっているようで、是非とも本にしたいという依頼の手紙でありました。
本を作るというのはたいへんであります。
苦労して作ってもなかなか売れるものでもありません
売れる、売れないという利益のことを私は何も心配していないのですが、やはり出版社の方には売れないとご迷惑をかけてしまうと思っています。
ですから全く乗り気ではなかったのですが、丁寧なお手紙に心動かされて、一度その編集の方にお目にかかったのでした。
いかにも実直そうな方で、お話しているうちに自然と本にしようという話になりました。
そこでさっそくゲラを組んでもらったのでした。
それから校正作業が始まりました。
昨年の暮れ頃であったので、とても諸事多くて、専ら移動中に校正していたことを覚えています。
どうにか校正作業を終えることができたのでした。
そして先日ようやく本ができあがりました。
本ができると、見本を贈呈していただけます。
今回も十冊頂戴しました。
本のタイトルが『無駄骨を折る』なのです。
こんな題の本など、手に取る人はいないだろうと思われるものです。
これは私がつけたのではなく、出版社の方がつけてくれたものです。
毎日書いて公開している文章をまとめただけなので、私は「ヒマな禅僧のたわごと」くらいでいいのではないかと思っていたのですが、『無駄骨を折る』になったのです。
本のオビにはいいことが書いてくれています。
『無駄骨を折る』のタイトルのあとに
「今日を生きるための禅の言葉
努力して努力して力を入れて入れて、それでも
どうにもならなくて、一切を放ち忘れたときに、
天地の気に満たされる。
鎌倉を代表する古刹・円覚寺派管長が日ごと綴る、「僧堂提唱」「今日の言葉」「今日の出来事」から精撰。」
と書いてくれています。
これは二〇一九年の七月から、二〇二〇年の一月までに書いた文章をまとめたものであります。
コロナ禍の前であります。
コロナ禍になって毎日書いている文章をYouTubeラジオ管長日記として読むようになりました。
その頃から、だいたい十分くらいの話になるように、二千文字くらいを目安に書くようにしています。
その前は長いのもあり、短いのもありでまちまちであります。
読んでいて短い文章も趣があると感じました。
「無駄骨」の章には、
「修行とは、結局無駄骨を折ることにほかなりません。
無駄を無駄と知っていて、それでも営々と無駄を貫き通してゆくしかないのです。」
という言葉がありました。
長年修行道場にいて、つくづく思うことであります。
しかし、今の時代はいかに無駄を省くかということが大事にされていますので、逆行しているかとは思います。
校正作業をしていて、一番印象に残った文章がありました。
「報恩底」という一章であります。
一部を紹介します。
「かつてお世話になったご老僧が、療養中と聞いてお見舞いに行ってきました。
ご老僧は、大正の末年のお生まれですので、九十歳を越えていらっしゃいます。
今春、奥様を亡くされたと聞いていたので、お弱りになっているのではと案じて出かけました。
お部屋に入ると、ベッドでお休みになっていましたが、
私の顔を見ると、驚いた様子で、すぐに起き上がり、ベッドの上で居住まいを正されました。
九十歳を越えても、背筋はピンと伸びて、美しい姿勢はお元気な頃を思い起こさせます。
「管長さんに、わざわざお越しいただいて恐縮です」とベッドの上で深々と頭を下げられます。
四十年も若い私などにも礼を尽くされるお姿は、やはり禅僧であります。
しばらく、お茶をいただきながら、談笑させていただきました。
ご老僧は、十歳で厳しいことで知られた禅寺に入門されて、長い御修行を積まれた方であります。
とある管長様の侍者も長らくお勤めになられて、当時は侍者の鏡と讃えられた方でもあります。
私の恩師である松原泰道先生ともご昵懇でいらっしゃいました。
そんなご老僧から昔のお話を伺うことは有り難いことです。
談笑のついでに、話題を転じて、「テレビはご覧になりますか」とうかがうと、
一瞬居住まいをただされて、
「今は、こうしてお世話になるばかりで、何も出来ないものですから、せめてもの報恩底で、私にできることはというと、
電気を無駄に使わないようにすることぐらいですので、テレビはつけません」
と静かに語られました。
「報恩底(ほうおんてい)」という言葉が耳に残りました。
「恩に報いること」、ご恩返しであります。
ご療養中にあっても、なお自分にできるご恩返しは無いかと考えてお暮らしなのでありました。
幼少より、禅寺に入って厳しい禅の暮らしをなさってきて、それが療養中にあっても身についていらっしゃることに、頭が下がりました。
思わずこちらも居住まいを正して、背筋を伸ばしました。
お見舞いにうかがったのですが、大事な教えをいただいた思いでした。
本ものの禅僧とはこういう方をいうのであろうと思いました。」
と書いていました。
この日のことは忘れられません。
その後老僧はお亡くなりになって、私が葬儀の導師を務めさせてもらいました。
本の「あとがき」にはこんなことを書いています。
「「毎日文章を書いてたいへんですね」と言われることがよくあります。
「ええ、まあ習慣になっていますので、朝歯を磨くようなものです」と答えたりしています。
「よく続きますね」と言われると、「老化防止ですから」と答えます。
「よく書くことがなくなりませんね」と聞かれると、「まあ、一日生きていれば何か思うことがあるものです」と答えます。
「毎日いつ書いているのですか」と問われると、「決まっていません、思いついたら書いています」と答えています。
過去を振り返られない性分の私は、自分で書いた文章を読み返すことはほとんどしません。
書いた文章よりも、その時に書くという行為それ自体が、私にとって大切の習慣なのです。
そのように思いついて書いた文章を読んでくださった皆様には感謝しかありません。
なにかのご参考になれば幸いであります。
ありがとうございます。」
というものであります。
一番最後に掲載されている文章がわれながらおもしろいと思いました。
これも紹介しましょう。
「知らざる最も親し」という題であります。
「ある方との会話で、
「はじめて管長に会った時に、私はいきなり、そもそも禅って何ですかと聞いたのです。」
と言われました。
私は
「へえ、そんなことを聞いたのでしたか。で、私はなんと答えていたのですか」
と尋ねました。
「それがいいことを言われました。」
「どんなこと?」
「禅って何ですかと聞いたら、それが分からないから、今も修行しているんですって。」
「へえ、いい答えだね。」
「管長が言われたのですよ。」
「もう忘れていました。」
語に曰く
知らざる最も親し。」
本の発売日は六月五日です。
円覚寺の夏期講座では先行販売をする予定であります。
横田南嶺