菩薩とは
仏教語でありますが、一般にもよく知られた言葉です。
まずは『広辞苑』で調べてみると、
梵語「bodhisattva」 覚有情と訳すとあります。
そして
①〔仏〕
㋐さとりを求めて修行する人。もと、成仏以前の釈迦牟尼および前世のそれを指して言った。後に、大乗仏教で、成仏を求める修行者を指し、涅槃を修行の目標とする声聞・縁覚に対するようになった。また、観世音・地蔵のように、衆生に利益を与える救済者ともされる。菩提薩埵。
㋑竜樹や世親など大乗仏教の大学者の称。
㋒朝廷から碩徳の高僧に賜った号。また、世人が高僧を尊称して用いる号。「行基菩薩」という用例があります。
②神仏習合による日本の神の尊号。「八幡大菩薩」がその例です。
③米の異称。
④雅楽。林邑楽の一つ。唐楽、壱越調いちこつちょうの曲。二人舞。舞は廃絶。」
と書かれています。
お米のことも「菩薩」というのであります。
『広辞苑』に、「菩薩実が入れば俯く、人間実が入れば仰向く」
という言葉が載っています。
「稲は実ると穂先を垂れるが、人間は裕福になったら尊大になりがちだという」意味です。
お米を菩薩というのは、おそらくは生きていく上で欠かせない大事な主食であり、そのお米の恵みに感謝して「菩薩」といったのではないかと察します。
また日本では五穀に神宿るという考えがありましたので、お米も菩薩と言ったのではないかと思います。
仏教語としての「菩薩」の解説は実に的確であります。
まず菩薩は悟りを求める有情という意味であります。
菩提は悟り、薩埵は有情であります。
そしてもともとは悟りを開かれる前のお釈迦様のことを言いました。
それが更に前世のお釈迦様も含まれるようになります。
それから大乗仏教になると、成仏の可能性がすべての人にまで広まりました。
それまでの仏教ではブッダになるというのはお釈迦様のような特別な方だけで、一般の者はブッダになることは考えられなかったのでした。
それが全ての人に成仏の可能性を認めるようになって、悟りを求める者をすべて菩薩と呼ぶようになったのでした。
それは阿羅漢を目指して修行する声聞や、師なく独自に悟るという縁覚と区別して用いられるようになったのでした。
更には、観音さまやお地蔵さまのように人々を救済してくださる佛さまとしての菩薩も説かれるようになったのです。
観音さまはすでに佛さまに成っておられたのですが、人々を救うために、観世音菩薩として世に現れてくださっているという教えであります。
このように大きく分けて三つの段階があります。
更に龍樹などの仏教の大学者も菩薩と呼ばれます。
龍樹菩薩と呼んでいます。
更には、
「朝廷から碩徳の高僧に賜った号。また、世人が高僧を尊称して用いる号。「行基菩薩」という用例があります。
神仏習合による日本の神の尊号。「八幡大菩薩」というように、日本では用いられています。
行基は奈良時代のお坊さんであります。
西暦六六八年から七四九年まで活躍されました。
「畿内を中心に諸国を巡り、民衆教化や造寺、灌漑施設の修築や橋梁架設等の社会事業を行い、行基菩薩と称された」と『広辞苑』に解説されています。
大仏造営の勧進に起用され、大僧正位を授けられてもいます。
八幡大菩薩というのも日本独自の菩薩さまであります。
もともとは「八幡神」です。
「八幡神」については岩波書店の『仏教辞典』に
「<八幡大菩薩><八幡大明神>ともいう。
古来から広く信仰されてきた神。
九州宇佐氏の氏神にはじまるとされる。
穀霊神・銅産の神としてあがめられ、かつ鍛冶とも関係。
八幡の示験は欽明天皇のころとされ、この伝承では応神天皇の垂迹神。
応神降誕のとき八流の幡が産屋をおおった、赤幡八流が虚空になびいたことにもとづき<八幡>というとするから、もとは<やはた>と読んだであろう。」
と書かれています。
更に「中央進出は奈良時代で、東大寺大仏造立助成を託宣、称徳天皇が宇佐八幡に和気清麻呂をつかわし道鏡即位の託宣を糺(ただ)したように、国家と結びついた。
奈良時代末期・平安時代初頭には、護国霊験威力神通大菩薩・護国霊験威力神通大自在王大菩薩の号が朝廷から授けられ、<八幡大菩薩>の略称が広く用いられた。
神仏習合現象の一つである。
860年(貞観2)大安寺行教(ぎょうきょう)が宇佐八幡を山城国(京都府)石清水に勧請、石清水八幡宮とした。
源頼義も相模国(神奈川県)鎌倉由比郷に勧請、その子孫源頼朝は小林郷に遷座、鶴岡八幡宮と称し、源氏の氏神としたので、武家社会の守護神として尊崇された。」
と丁寧に解説されています。
九州の宇佐八幡が一番のおおもとで、それが石清水八幡宮となり、更に鎌倉に鶴岡八幡宮となっているのです。
また日本で菩薩と呼ばれる方には忍性菩薩がいらっしゃいます。
忍性は西暦一二一七年に生まれ一三〇三年にお亡くなりになっています。
律宗の僧です。
大和(奈良県)の出身で、西大寺の叡尊にしたがい戒律と密教を学ばれました。
あつく釈迦如来や文殊菩薩を信仰していました。
そして、貧窮者や癩病患者の救済にあたっていました。
三十六歳のとき関東に下向し、まず常陸(茨城県)三村寺を拠点としました。
その後、北条重時一族の支援を受けて、文永四年(一二六七)以後は鎌倉極楽寺を中心に戒律を広められたのでした。
また広く社会救済事業を推進された方であります。
橋・道路・港湾の修造などにも功績を残しています。
叡尊教団の発展につくし、摂津多田院や四天王寺別当、東大寺大勧進職にもなっています。
行基や忍性などの僧侶は、四恩思想を実践の中心としていたとも言われます。
四恩は心地観経によれば、父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩です。
衆生の恩に報いるために、橋を作ったり道を治したり、病気の人を救済したりする社会事業をなさったのでした。
三宝の恩に報いるためには広く仏教を布教されたのであります。
忍性菩薩は円覚寺の開山仏光国師とほぼ同じ時代を生きられた方でありますが、当時の禅宗と異なり積極的に社会に出てはたらかれた方であります。
世の人々を救済してくださった方を菩薩と尊称されたのであります。
横田南嶺