念仏唱えて念仏坂を
先だっての一週間もたいへんでありました。
十二日の日曜日は日曜説教と、午後から東慶寺の法話。十二日は東慶寺の斎会、十三日は大学の授業と花祭り、十四日は沼津のお寺の法要、十五日は修行道場の講中齋、十七日は野沢の龍雲寺で盤珪フォーラム、そして十八日は新宿の月桂寺で施餓鬼会法話と、連日よくこなしていたと思います。
一連の行事が終わってホッとしているのであります。
月桂寺で法話をするのは実に久しぶりでありました。
コロナ禍の前のいつであったか、もう忘れてしまったほどでした。
七月の施餓鬼会で法話をさせてもらっていました。
それが当時のご住職のご体調がすぐれずに、しばらく施餓鬼会はお休みになり、そのままコロナ禍となってしまったのでした。
月桂寺は、『禅学大辞典』にも掲載されている名刹であります。
『禅学大辞典』には、
「臨済宗円覚寺派。山号正覚山。
東京都新宿区市ヶ谷河田町にある。
寛永年間(一六二四~一六四四)の開創で、もと平安寺と称した。
関叔を開山とし、渋江徹斉を開基とする。
古来関東十刹に数えられる。」
と書かれています。
円覚寺派の中でも三か寺しかない特例地のひとつであります。
円覚寺の朝比奈宗源老師が亡くなって、そのあと管長になられたのが、月桂寺の松尾太年老師でありました。
昭和五十四年の九月に円覚寺の管長に就任されていますが、残念なことに、昭和五十五年三月十九日にお亡くなりになっています。
そしてそのあと足立大進老師が管長に就任されています。
松尾太年老師は、明治三十七年佐賀県のお生まれです。
大正十年に久留米市の梅林寺で出家されました。
十七歳の頃であります。
その後妙心寺派の妙興禪林で学ばれ、更に昭和三年建仁寺の僧堂に入って、昭和十九年まで修行なされた老師であります。
そして建仁寺山内の堆雲軒にお入りになって、昭和二十三年月桂寺の住職に就任されています。
太年老師の三回忌に出版された『禅を生きる』(産業能率大学出版部)には、足立老師がまえがきを書かれています。
冒頭の部分を引用します。
「昨年の春、円覚寺の舎利殿のまわりの崖っぷちで、大きくなりすぎた木の伐採をしました。
もう六十に近いと思われる職人さんが、軽々と木に登って行くと、命綱で身体を支え、チェンソーや鋸を使って、まるで大根でも切るように大木の枝を次々と伐って落してくれました。
そして「わしは十四の時からこの仕事をしておるから、こんな危険な仕事でも出来るのだ」と話していました。
どんな仕事にしても、十四、五歳から志を立て、憧れを抱いて、その道に入ることがなければ、本物になることは難しい。
老師はその若い大切な時に、梅林寺で僧堂の老師(香夢室)から直接雛僧(小僧)としての教育をお受けになりました。
今日ではとうてい望めないような基礎教育を受けて、禅僧としての出発をなさっております。」
と書かれています。
そうして更に十七年も建仁寺の僧堂で修行された老師であります。
入寺された頃の月桂寺は、戦災を受けて見る影もなかったようであります。
それを御一代で復興されたのでした。
『禅を生きる』に、こんな言葉があります。
「そのものとなる切ることが大切で、山と一つになる、公案と一つになり切るのが禅の修行です。
なり切ると言うて、何が必要かと言うと、そうなった時に、それを日常生活に引き移して、お茶飲む時はお茶飲むだけでいい、楽しんで飲む。食事の時は食事の時で、楽しみながら食べると。
それで雰囲気も明るい。
ところが、一人のために、部屋中陰気になる場合があるでしょう。
何か変な顔して、まずそうに食べている。
他のことばかり考えていたのでは、それはまずくなっちまいますよ。
ぜんぜん味がしないもの。恰好だけで食べている。
本人としては当り前に食べとるつもりだけど、心中のゆううつさが態度に出とるから、「あの人いやな顔しとるな」とこうなってくる。
結局、食べる形と食べる気持とが一つになっていない、心身一如でない。
話でもそうだと思うですね。
相手のために話す。
話しおるうちにだんだん一つになる。
二人一つの目標に向かって話しおるうちに、だんだん意志が親しくなってきて、「イヤこう、イヤそこはこう」と、もう自分を忘れてしまって、そのものになり切っとるでしょ。
そうすると、こっちの持ってるものすべて出とる、相手のものもすべて出とるから、おたがいに研鑽しあっていける。
そこが本当の人間の生き方ではないかと言うんですね。」
という言葉であります。
久しぶりに月桂寺に行くのに、どのように電車を乗り継ぐか考えました。
新宿駅まで行って、大江戸線に乗って若松河田駅まで行って歩く方法もあります。
新宿駅は広大で、しかも横須賀線は端っこの方にあるので、大江戸線まで乗り換えできるかどうか、自信がありませんでした。
かつて何度か道に迷ったことがあります。
都営新宿線で曙橋まで行って歩くのがよいだろうと思いました。
馬喰町まで行って、馬喰横山で乗り換えると新宿線にすぐ乗れると聞いてそうしてゆきました。
曙橋でおりて、念仏坂を登ってゆきます。
念仏坂は、かつてこの坂の近くに老僧が住んでいて、昼夜を問わず念仏を唱えていたことから「念仏坂」と名付けられたとされています。
こんな都会の中に「念仏坂」をいう名の坂があるのが有り難いと思います。
私もお念仏を唱えながら、登りましたが、その日は気温が高く汗が出ました。
施餓鬼の法話を務めて、帰りは若松河田駅から乗って、新宿駅で湘南新宿ラインに乗り替えて帰ってきました。
一連の行事を終えてホッとしたところであります。
横田南嶺