こんにちは、こんにちは
「講」というのは、『広辞苑』に
仏典を講義する法会。最勝王講・法華八講など。
②仏・菩薩・祖師などの徳を讃嘆する法会。
③神仏を祭り、または参詣する同行者で組織する団体。
④一種の金融組合または相互扶助組織。」
と解説されています。
岩波書店の『仏教辞典』には詳しく説かれています。
「本来は仏典を講説する僧衆の集会を意味したが、転じて信仰行事とそれを担う集団をさし、さらに転じて共通の利益のための世俗的な行事とその集団をさすのに用いられる。
七世紀にすでに最勝講会(最勝会)、仁王講会(仁王会)、法華講会(法華会)など仏典講究の集会の例があるが、九世紀に入ると法華経の読誦が流行して法華八講が広まり、法会に<講>の名称を付ける風が一般化した。」
と書かれています。
「講中」というと、
「講を結んで神仏に詣でる連中。」と『広辞苑』にあります。
修行道場の講というのは、「育英講」と言います。
育英という言葉は今でもよく使われます。
『広辞苑』には、
『孟子(尽心上)』から、「天下の英才を得て之を教育するは三楽也」という言葉が書かれていて、更に
「①英才を教育すること。転じて、教育。
②学徒に学資を給与または貸与し人材を育成すること。」
とあります。
ここでは二番の意味であります。
修行僧達の修行生活を経済的に成り立たせるように支援する集まりであります。
円覚寺のようなお寺は、明治までは、幕府が経済的に支援してくれていました。
それが明治維新で経済的基盤を失いました。
修行道場も一時閉鎖されたほどでした。
それが明治になって今北洪川老師が円覚寺にお入りになって、学者、軍人、経済界の人などが、洪川老師のもとに集まって支援してくださるようになりました。
それから釈宗演老師が出られて、宗演老師には信者の方が多く、支援もしていただいていたのでした。
その頃に日供ということを始められたのでした。
これは毎日ご飯を炊く時に、あらかじめ枡を用意しておいて、その枡にほんのすこしばかりのお米を入れておくのです。
これは修行僧たちのためのお米なのです。
ほんの一握りくらいのお米ならば、生活にも支障を来すことはありません。
それでもそうして毎日少しのお米をためておくと一月では一升くらいにはなるものです。
そして一月に一度、修行僧が、その家にお参りして玄関先でお経をあげます。
そこで、一月ためておいたお米を修行僧に供養するのです。
そうして集めたお米で修行していたのでした。
ふだんいただくお野菜などは畑で作りますので、お米をいただければどうにか暮らしてゆけたのでした。
まだ昭和の頃までは、お米をいただく習慣が残っていましたが、だんだんお米の代わりに貨幣をいただくように変わってゆきました。
いまでは貨幣がほとんどであります。
そのいただいた貨幣でお米を購入して暮らしているのであります。
お釈迦様が
蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。
聖者が村に行くときは、そのようにせよ。
と『法句経』に仰せになっていますが、信者さんたちの負担にならないようにいただいていたのでした。
よい風習だと思います。
この支援してくださる皆さまが育英講中であります。
その日供と町に托鉢に出るのとがあります。
托鉢は、一件ずつお家の前でお経をあげてお布施をいただくものであります。
その時に、途中で休息をしてお茶の接待をいただくことがあります。
あるいは点心といってお昼のご供養をいただくこともあります。
この休息のおもてなしや点心をくださるのも育英講中であります。
そんな講中の皆さまをお招きして施餓鬼の法要を行うのであります。
かつては春と秋のお彼岸の入りの日に行っていました。
先代の管長の折に、春のお彼岸はまだ寒い日もあり、秋の彼岸は暑い日もあるというので、ちょうど気候のよい五月に一度開催することにしたのでした。
私は、その頃修行僧として、お彼岸に行っていたのを、五月にするようにいろいろ手配をしていたものでした。
もう三十年近くも五月開催で定着しています。
そうして五月に講中齋を催していたのでした。
コロナ禍の前までは修行僧たちがお昼の食事を作って振る舞っていました。
コロナ禍からはお昼のご飯は無しにしています。
その代わり修行道場で作った甘酒を召し上がっていただいています。
一時間ほど私が法話をして、そのあと大施餓鬼の法要をおつとめします。
そして舎利殿のある修行道場を案内させてもらっているのであります。
毎回法話ではいろんな話を考えます。
今回は最近の話題で、物価高やお米の値段の高騰から、パンダの話題、そして万博のことに触れてみました。
今から五十五年前に前回の大阪万博がありました。
私も六歳の頃でしたが、連れて行ってもらった記憶があります。
太陽の塔や月の石などを覚えています。
あのころは「世界の国からこんにちは」という歌がはやっていました。
三波春夫さんが歌っていました。
歌詞を見てみますと、
こんにちは こんにちは西のくにから
こんにちは こんにちは東のくにから
こんにちは こんにちは世界のひとが
こんにちは こんにちはさくらの国で
一九七〇年の こんにちは
こんにちは こんにちは 握手をしよう
というのであります。
「こんにちは、こんにちは」という歌が耳に残っています。
この歌は三番まであって、三番まで歌うと「こんにちは」はなんと三五回も出てくるそうなのです。
そして「こんにちは」の話をしました。
挨拶の「こんにちは」はもともと
「今日はご機嫌いかがですか」
「今日はよいお天気ですね」
「今日はお出かけですか」
というように、「こんにちは」は相手に声をかける丁寧な言い回しの一部でありました。
江戸時代頃からこのような挨拶表現が使われるようになったようです。
それが、だんだんと文の後半が省略されて、今のような「こんにちは」になったようであります。
裏千家の家元が今日庵と言います。
今日庵の由来などもお話しました。
正受老人は、一大事と申すは今日ただいまの心なりとお示しになっています。
懈怠の比丘明日を期せずという言葉もあります。
明日のことはどうなるか分からないのです。
ですから今日一日を精一杯生きるという教えであります。
趙州和尚の言葉には「今日好風」というのもあります。
迷いと悟りというふたつにとどまらない境地を問われて答えた言葉です。
今日はいい風だという意味です。
講中齋の日も暑からず寒からず、新緑を吹く風がなんとも心地よい日でありました。
横田南嶺