今日ただいま
「今日まさに作すべきことをなせー一夜賢者」
という一章があります。
その一部を紹介します。
はじめに
「その時、仏陀は、サーブッティ(舎衛城)の郊外、ジェータ(祇陀)林の精舎にあった。いつものことであるが、仏陀が「比丘たちよ」と呼ぶと、彼らは、仏陀のまわりに集まってきて、仏陀のいうところに耳を傾けた。」
というところから始まります。
そのあとお釈迦様の言葉です。
「比丘たちよ、今日わたしは、いわゆる一夜賢者の偈について話をしたいと思う。よく聞いておいて、あとで、じっくりと考えてみるがよい。」
と説かれました。
増谷先生の解説によると、この一夜賢者の偈というのは「そのころ巷間に知られていたものであった」というのです。
お釈迦様が説かれたものではありませんでした。
しかし「そのいうところは、仏陀の教えに一脈相通ずるものが存する」と解説されています。
その一夜賢者の偈というのは次の通りです。
「過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来たらざるを念うことなかれ。
過去、そはすでに捨てられたり。
未来、そはいまだ到らざるなり。
されば、ただ現在するところのものを、
そのところにおいてよく観察すべし。
揺ぐことなく、動ずることなく、
そを見きわめ、そを実践すべし。
ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。
たれか明日死のあることを知らんや。
まことに、かの死の大軍と、
遇わずというは、あることなし。
よくかくのごとく見きわめたるものは、
心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん。
かくのごときを、一夜賢者といい
また、心しずまれる者とはいうなり。」
というものであります。
増谷先生は、「その意味するところを、後代の仏教者は、「一大事とは、今日ただいまのことなり」と語ったこともあった」と書かれています。
これはおそらくや正受老人のことを指していると思われます。
正受老人は「一日暮らし」という教えを残されています。
この正受老人の教えもまた、或る人が「一日暮らしという生き方をするようになったら、心もさわやかになって体のためにも非常によかった。」というのを聞いて説かれたものです。
「一日は、千年万年の初めであり、その初めの一日をよく暮らすようにしていると、その日は充実したものとなり、それは一生をよく暮らすことにつながるからだ。
ところが人間というものは、とかく翌日のことを考えて、ああでもないこうでもないと、まだ先のことについて取り越し苦労をして、一日をむだに過ごしてしまい、その日のことを怠りがちになる。
明日もあるから今日はこれでいいだろう、という毎日が続いていってしまうと、今日の一日という意識もなくなってしまい、ついあてもない先のことを頼みとして、その日の自分自身の緊張感がなくなってしまう。
明日やればいいと言っても、その明日があるかどうかは誰にも分からない。
人の命は、はかないものだからこそ、今日一日の生活はどうなってもいいということではなく、今日の一日を精一杯つとめむべきなのだ。
どんなにつらいことでも、一日のことだと思えば耐えられるし、楽しみだって一日のことだと思えばそれに溺れることもない。
おろか者が好き勝手なことをして親不孝をするのも、人生は長いからそのうち孝行すればいいなどと考え、つい甘え心をおこしてしまうからだ。
どんなことでも、今日一日が自分の生涯だという気持ちで過ごせば、無意味な時間を過ごすことなく、充実した一日を過ごすことができる。一日一日と思って一生懸命に生きれば、百年でも千年でも充実して過ごすことができる。」
と説かれています。
そして、「一大事と申すは、今日只今の心也。それをおろそかにして翌日あることなし。総ての人に、遠き事を思ひて謀ることあれども、的面の今を失うに心づかず。」と仰せになっています。
人生の中で一番大切なことは、今日ただいまの自分の心です。
それをおろそかにしていては、翌日などというものはありません。
明日もあると思ってあれこれ思いはかっていても、大事な今を見失っていることに気がついていないというのです。
趙州和尚に「今日好風」という言葉があります。
ある修行僧が「凡に在らず、聖に在らず。如何が両頭の路を免れ得ん。」と聞いてきました。
迷いの世界にも居ず、悟りの世界にも止まらないといいますが、どうしたらこの迷いと悟りという二つの世界から逃れられますかという問いです。
趙州和尚は「両頭を去却し来たらば、你に答えん。」と言います。
迷いと悟りの二つをなくしてしまってきたら答えてあげようと言いました。
なかなかそう言われても困るものです。
そのあと問答が少し続いて、最後に趙州和尚は「我れ你に教えん。何ぞ『今日好風』と道わざる」と説かれています。
どうして今日はよい風だと言わないのかというのであります。
迷いだ悟りだとあれこれと考えていると、今日ただいまを見失ってしまうのです。
今日はよい風だという趙州和尚は、実に今日ただいまを生きていらっしゃるのであります。
横田南嶺