寺社縁起
「寺院や神社の草創や沿革をかたる詞章・絵巻・記録などの総称」を言います。
それぞれの神社やお寺にはその由来があるものです。
先日は上京した折に春秋社に行ってきました。
いろいろの打ち合わせでありました。
まずは有り難いことに、朝比奈宗源老師の本をまた復刊してくださるということでした。
それから、私が既に春秋社で出版している本を電子書籍にしてくださるということです。
それに、今春秋社から出版に取り組んでいる企画についての相談でありました。
春秋社も古くて一九一八年(大正七年)に創業されています。
多くの仏教書を出版しているところであります。
朝比奈宗源老師の『仏心』も春秋社の出版であります。
私も初めての著書『祈りの延命十句観音経』が春秋社からであります。
その後も『仏心のひとしずく』『仏心の中を歩む』『禅と出会う』『盤珪語録を読む』などを出してくれています。
対談の本では塩沼亮潤阿闍梨との対談『今ここをどう生きるか』椎名由紀先生との共著『ZEN呼吸』があります。
そして最近の『はじめての人におくる般若心経』があります。
春秋社に行った折に、近くの神田明神にお参りしてきました。
神田明神は、お祭りが近いらしく、とても大勢のお参りでありました。
平将門をお祀りしているところだと思っていましたが、創建はもっと古いのであります。
天平二年(七三〇)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されているとのことです。
「その後、将門塚周辺で天変地異が頻発し、将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました」ということのようです。
平将門は『広辞苑』に、
「平安中期の武将。高望(たかもち)の孫。
父は良持とも良将ともいう。
摂政藤原忠平に仕えたのち坂東に帰り、伯父国香(くにか)を殺した。
九三九年(天慶二)常陸国府を占領して謀反。
居館を下総猿島(さしま)に建て、文武百官を置き、自ら新皇と称し関東に威を振るったが、平貞盛・藤原秀郷に討たれた。後世その霊魂が信仰された。」
と解説されています。
将門をお祀りしている将門塚は大手町に今もあります。
将門に由来するお寺が成田山新勝寺でもあります。
新勝寺については岩波書店の『仏教辞典』に、
「九四〇年(天慶三)平将門(?-94〇)の乱を平定するために、広沢遍照寺寛朝(かんちょう)(九一六ー九九八)が高雄山神護寺(じんごじ)の不動明王像(伝空海作)を奉じて関東に赴き、東国平定後この像を安置して神護新勝寺を建立」されたものです。
古いお寺では、なんといっても浅草の観音さまであります。
『仏教辞典』には
「寺伝では六二八年(推古三六)現在の隅田川から観音像が示現(じげん)し祀ったといい、六四五年(大化一)に本堂を再建した勝海を開山、八五七年(天安一)に堂宇を増築した円仁(えんにん)を中興開山とする。
その後、平公雅(たいらのきみまさ)や源頼朝(一一四七―九九)、また北条・足利氏などにより修築・再建を繰り返すが、徳川氏からは祈願所とされ、寺領五百石を受けて興隆した。」
と書かれています。
縁起では「宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌一九日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。」のが始まりであります。
観音さまでは清水の観音様もまた古いものであります。
『仏教辞典』には、
「大和国子島寺(こじまでら)(奈良県高市郡)の住僧延鎮(えんちん)は、山城木津に草庵を結び観音を安置していたが、七八四年(延暦三)長岡京遷都に際して山城東山に移った。
その折、坂上田村麻呂は厚くこれに帰依し、八坂の自邸を喜捨して堂舎を建立し<北観音寺>と称した。
のち田村麻呂の東征および桓武天皇の病気平癒の祈願などに霊験を示したことにより、八〇五年(延暦二四)堂塔を造立して勅願所に列せられた。
八〇六年(大同1)紫宸殿を賜って本堂とし、<音羽山清水寺>と改めた。
八一三年(弘仁四)鎮護国家の道場となし、延鎮の門流をもって寺司となし、田村麻呂の子孫をもって寺家の職たらしめた。」
と書かれています。
『清水寺縁起』には、
「奈良で修行を積んだ僧、賢心が夢で「南の地を去れ」とお告げを受けたことが清水寺の始まりです。賢心は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つけます。
そして、この瀧のほとりで草庵をむすび修行をする老仙人、行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会ったのです。
行叡居士は賢心に観音を造立するにふさわしい霊木を授け「あなたが来るのを待ち続けていた。
私は東国に修行に行く。どうかこの霊木で観音像を彫刻し、この霊地にお堂を建ててくれ」と言い残して姿を消したといいます。
賢心はすぐに「勝妙の霊地だ」と悟り、以後、音羽山の草庵と観音霊地を守りました。賢心が見つけた清泉は、その後「音羽の瀧」と呼ばれ」ているのです。
この賢心が後に、延鎮と名乗っているそうです。
それぞれの寺社にはそれぞれの由来があるものです。
お参りした折には学ぶと一層有り難く感じます。
横田南嶺