母への孝養を尽くした禅僧
もともと五月四日というのは休日ではありませんでした。
私なども学校に行っていた頃は休日ではなかったのでした。
それが一九八六年に国民の休日とされるようになり、第一回の国民の休日は一九八八年だったようです。
それが二〇〇七年に、四月二九日を昭和の日に、五月四日をみどりの日に定められました。
みどりの日になってからももう一八年も経つのであります。
その日は午前十時から鎌倉エフエムのラジオ生放送にでかけました。
祝日は車が混むので、鎌倉駅まで電車で行き、駅からは歩いて長谷にある会社に出かけることにしました。
鎌倉駅は、午前9時でしたが、かなりの混雑でありました。
改札を出ようとすると、橫から歩いてくる人とぶつかりそうになりました。
これは失礼と思ってみたら、なんと村上信夫さんでした。
こんな偶然というのがあるものです。
村上さんは鎌倉駅から江ノ電に乗って長谷駅まで行って会社に行くとのことでした。
私は混雑している電車に乗るよりも歩く方が気持ちがよいと思って歩いてゆきました。
鎌倉エフエムの会社まで、距離は1.6キロ、それを一八分で歩いて着きました。
時速5.3キロのスピードですから、早歩きであります。
会社には、私の方が早く到着しました。
歩いて着くと、もう汗が出てきました。
はやくも汗ばむ季節となりました。
五月の放送ですから、母の日にちなんで話をしました。
私の役目は、法話と禅語の解説と坂村真民先生の詩を読むことの三つであります。
それぞれ十五分くらいでいいのです。
気楽といえば気楽であります。
あとは、音楽を流したり、リスナーの方の手紙を読んだり、質問に答えたりしています。
ほとんどすべて村上さんが取り仕切ってくださるので、こちらは到ってのんびりしています。
法話では円覚寺の開山仏光国師と、私が初めて参禅した和歌山県由良町の興国寺の開山法燈国師、そして円覚寺の中興大用国師、三人の禅僧の母への孝行の話をしました。
無学祖元禅師は、十三歳で出家し、十四歳で径山に上り修行を始め、仏鑑禅師をはじめ石溪禅師や虚堂禅師について修行されて、二十八歳の頃には修行を成就されています。
そののち三十代の頃、およそ七年もの間、白雲庵に住まわれて母への孝養を尽くされています。
そして四十四歳で台州真如寺の住持になっています。
日本にお見えになったのは五十四歳の時でした。
そして六十一歳でお亡くなりになっています。
三十代の最も気力体力の充実した時に母への孝養を尽くされるというのはいかに親孝行であったかと察します。
その時に作られた漢詩が素晴らしく、語録に残っています。
二つほど詩を紹介します。
風、長林を攪いて雪牀に満つ
寒藤葉無く空桑に倚る
誰か知る戸破れ家残る処
添い得たり、黄梁客夢の長きを
意訳しますと、「風が吹いて林をかき乱し、雪が吹き込んで床に積もる。
藤の木は葉がすべて落ち、桑の木にも葉がない。
この荒れ屋住まいの様子を誰が知るであろうか。
誰も知らなくても、心の中では母と一緒に楽しい夢を見ているのだ。」
というところでしょう。
昔の家は今のように密閉されていませんから、雪が降ると部屋の中にまで吹き込んできたのでしょう。
そういう中で母親と二人で暮らしていました。
そんな暮らしをしているとは誰も知らないだろうけれど、母と二人、楽しい夢を見ながら過ごしているのだ、という詩です。
灯前 残臈多く無きを苦しむ
相対して無言 意いかん
一たび路頭を錯まって巫峡遠し
三生煙は冷やかなり旧磐陀
これは大晦日の詩です。
灯の前に坐って、今年も残り少なくなってきました。
母と向い合って、言葉なくして坐っているが、胸中は実に無限の感慨だというのです。
この巫峡というのは蜀の国、今の四川省です。
こんな故事があります。
これは朝比奈宗源老師の『しっかりやれよ』から引用させてもらいます。
「昔、洛陽に円環という坊さんがいて、友人と巫峡に行く途中、村の娘が川で洗濯をするのを見て泣いていうには、「自分は三生の間、岩の上で坐禅していた。今そなたを見て、巫峡に行くことを止め、そなたの腹をかりて生まれかわりたいと思う」と。
友人と別れるにのぞみ、「君よ、来年巫峡よりの帰りに訪ねてくれ給え、その時一人の子供が生まれているだろう。
その子は君を見たら笑うであろう。それが私である」と。
友人は巫峡の帰りに立寄れば、生まれて三日目の赤児が居た。
窓に抱いて行って見ると、果して一笑した、と。」
という話がもとになっています。
そこで、ちょうどその円環という坊さんが、洗濯をしていた娘を見て、そこで子供になってしまったように、母に対して、わたしもあなたのお腹を借りて生まれたというのです。
「路頭を錯まって巫峡遠し」というのは、あなたのお腹を拝借したために、蜀に行かなかったことを表現しています。
磐陀とは巌のことです。
三生の間坐禅した巌は、もやがかかっていていかにも冷ややかだというのです。
こんな詩を残されています。
法灯国師もまた母思いでは知られています。
六十歳になって、自分の母が年老いていることを知って、和歌山の興国寺からはるばる、長野の神林をいうところまで迎えに行かれます。
ご自身が六十歳ですから、お母さんはかなりの高齢だったと思います。
でも法灯国師は自分の寺に引き取ってお世話したいと思われました。
六十歳の国師が、高齢の母の手を引いて、あるときは背負いながら、長野から紀州和歌山の興国寺まで連れて帰りました。
当時興国寺は既に修行の道場でありましたので、お寺の中に母を住まわせるわけにはゆかず、お寺のすぐ門前に庵を建てて、そこに住んでもらい、国師は毎日庵に出かけては、孝行を尽くされたと伝えられています。
高齢のためお母さんはわずか一年ばかりでなくなりますが、その庵を寺にして、そこにお母さんのお墓を建てて、なんと法灯国師は、九十歳でお亡くなりになるまで、毎朝裸足で、お母さんのお墓参りを欠かされなかった伝えられています。
大用国師は、七十歳の時に、九十九歳まで生きたお母さんが亡くなります。
お母さんが八十八歳の米寿を迎えたときのお祝いの手紙が残っています。
国師は母を亡くすと、母の菩提のために西国三十三所の札所を回り始めるのです。
車で回るのも大変な巡礼ですが、車のない時代は一層大変な苦労であったでしょう。
それでも、お母さんの供養のために、翌年七十一歳になるまで二年がかりで回るのです。
旅の途中に円覚寺から帰ってきてくれとたびたび手紙が来たのにもかかわらず、一度も鎌倉に帰らずに、西国三十三札所を回ったのでした。
そんな三人の禅僧の逸話を紹介しました。
ラジオの生放送もこれで六回目となりました。
だいぶ慣れてきたものです。
横田南嶺