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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.05.01
今日の言葉

漢字に学ぶ

さて今日から早くも五月であります。

新緑の季節であります。

禅の語録はおおむね漢文で書かれています。

漢文で学ぶのが主流であります。

仏教が中国に伝わったときには、サンスクリットやパーリ語というインドの言葉で書かれたものをすべて漢字に翻訳しました。

原典はあまり残っていません。

中国から日本に仏教が伝わったときには、すべて漢文のまま受け入れました。

すべてを自国語に訳すということはしませんでした。

そして、漢文はそのままにして、訓読するという独自の方法を編み出しました。

返り点やレ点というのをつけて、漢文を日本の言葉のように読むのであります。

木版本には、返り点やレ点がつけられていますので、昔の方がどのように訓読されたのかが分かります。

今は返り点やレ点を打ち出すのが難しいので、印刷されることは稀になりました。

そのかわり、今禅の語録を本にするときには、漢文の原文と、訓読した文と、そして現代語訳をしたものと、更に註釈をつけるというようになっています。

たとえば『臨済録』に、「把住して曰く「道え道え」」という文章があります。

臨済禅師が、僧の胸倉をつかまえて言った、「さあ言え! さあ言え!」という意味です。

漢文だけを見ますと、単に「道道」と道という字を二つ並べているだけであります。

木版本ですと、道の下に「へ」という送り仮名が小さく書かれています。

そこでこれは「いえ」と読むのだと分かります。

「道」という字を漢和辞典で調べてみると、

名詞として「みち。頭を向けて進んでいくみち。ある方向にのびるみち」という意味が書かれていて、

更に動詞として、俗語ですが「いう。のべる」という意味が書かれています。

そして「唐代以後の俗語では、「謂曰…(いひていはく)」を「説道…」という」という解説も書かれています。

禅の語録は俗語の表現が多いのです。

漢字にはいろんな意味があるのです。

臨済禅師の伝記を学んでいて、『禅学大辞典』には、

「幼時より衆にすぐれた才をあらわし、長じては孝行の人として知られた。佛教を好み、出家受具して諸方の高僧に学び、はじめは主として律や華厳を学んだ。しかし、これらの学は佛教の真実を得る道でないことをなげいて衣をかえて遊方した。

黄檗山の希運に参して、非凡の才を認められ、禅の奥旨を探り、悟境に達したが、希運の指教により高安大愚に参じ、ついで、潙山に謁して、ふたたび黄檗の会下にもどった。

行業は純一で、同輩をはるかに抜き、識見は高邁卓抜、時に師希運をおどろかせた。

希運は百丈の禅板と几案を授けて、印可の証とした。

法を嗣いでのち、諸方の禅林の名宿を訪ね、大中八年(八五四)に鎮州(河北省正定県)東南の小院に住した。」

と書かれています。

ここに「遊方」という言葉があります。

これは、遊びにいったことではありません。

「遊」という字を調べてみると、「あそぶ。決まった所にとどまらず、ぶらぶらする。旅をしてまわる。」

という意味や、

「一定の住まいや定職がないさま。」「好きなことをして気楽に楽しむ」という意味の他に、

「定着した住居を離れてよそに出る」という意味があります。

「遊学」などというのはこの意味であります。

遊学は遊びに行くことではなく「他郷に行って学問すること」を言います。

遊説というのも遊んで説くことではありません。

いろんなところに行って説いて回ることであります。

遊と行という字(遊行)では、

一般には「「ユウコウ、ぶらぶらと歩き回る」ことですが、仏教語としては「ユギョウ」で「僧侶が諸国を回ること。行脚。」のことを言います。

岩波書店の『仏教辞典』には、

「仏教では<ゆぎょう>とよんでこれに特別な意味をになわせ、諸国を回って仏道を修行することをいう。

少欲知足を旨とし、托鉢糊口の資としてひたすら解脱を求めるのが本意である。

この種の僧をも広く<遊行の聖(ひじり)>などと呼ぶが、特にこの遊行を仏道修行の大眼目とし、諸方を遍歴修行して道心を磨き、民衆を念仏教化して回ったのが時宗の宗祖一遍で、<遊行上人>略して<遊行>とも称される。」

と解説されています。

修行僧達に語録を講義をするときには、『漢辞海』という辞書を皆に持たせて、一緒に辞書を引いて確認して学ぶようにしています。

先日、玄侑宗久先生から新しい本を送っていただきました。

これが『禅的生活365日: 一日一字で活溌に生きる』という本であります。

誠文堂新光社からの出版であります。

この本は、とてもおもしろくて、漢字一字を選んで「毎日の一文字」三六五字を選定しています。

そして、その文字に込められた禅的仏教的なものの考え方や見方などを解説してくれているのです。

漢字一字でこんなに深い意味があるのかと驚きながら学べます。

たとえば「我」という字について、

「ノコギリで切ったから「我」がある」

と書かれていて、

更に
「「我」はもともとノコギリの形。

全体と繋がった存在なのに鋸で切り、自立したかに見せかけたアイディアは秀逸。
「我」がノコギリではなく「自己」の意味で使われたため、ノコギリには新たに「鋸」の文字が作られた。」

と書かれています。

なるほどと思いました。

他のものと分けて切り取って自立したかに見せかけるとは、言い得て妙であります。

先ほどの「道」については、八月十日のところに書かれています。

大正九年の八月十日が「近代的な道路整備計画が決定されたからという。

ところで道の反対語はご存じだろうか。

答えは路地。行き止まるのが路地で、果てしなく続くのが道である。」

という解説には考えさせられます。

道は果てしなく続くのであります。

果てしなく続くからこそ道なのであります。

玄侑先生の該博な知識に裏打ちされた、それでいて軽妙な文章を読んで、深く頷き納得して、勉強にもなる一冊であります。

漢字についてはまだまだ学ぶことがあります。

 
横田南嶺

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