貧なるべし
道元禅師の清貧にして枯淡な禅風を思います。
講談社学術文庫の『正法眼蔵随聞記』の山崎正一先生の現代語訳を参照します。
その巻一の四に、
「僧が身をあやまるのは、豊かさから起るものなのだ。
釈尊在世の当時、提婆達多が釈尊をねたんで事を起したのも、阿闍世王から、毎日、五百車の供養があったことがもとである。
富は、自分を損うばかりでなく、他人をして悪をなさしめる因縁となるものである。
まことの修行者は、どうして富貴であってよかろうか。
たとえ浄らかな信仰による供養でも、多額になったら、施しをして報恩ということを考えなくてはならない。
それにわが国の人は、自分の利益を考えて僧に供養する。
にこにこ愛想のいい者には、人当りもよくなる。
これは人情自然の道理である。だが、こうして相手の心に追従しようとするのは、修行のさわりとなる。
ただただ飢えをしのび、寒さに耐えて、ひたすらに仏道を学ぶべきなのだ。」
という言葉があります。
貧窮が身を滅ぼすのではなく、富貴が身を滅ぼすもとになるのです。
修行時代に、柳行李ひとつの荷物だけで暮らしておられた老師の話を聞いて、感動したものです。
また逆にたくさんの荷物をもって、僧堂に入って来られた老師の話も耳にしたこともあります。
大慧禅師の『宗門武庫』にある、修顒禅師の話などは、我が意を得たりの思いで読んでいたものです。
富弼が司馬温光と共に修顒禅師をお迎えに出ていて、たくさんの荷物を運ぶ馬車を見て、それが修顒禅師の荷物だと聞いて、司馬温光は去っていったという話です。
そのような貧なることに憧れてこの道に入って修行してきました。
しかし、恥ずかしながら、鎌倉の円覚寺に来てもう三十数年になると、持ち物も増えてしまいます。
来た時は柳行李ひとつだったのです。
管長に就任するまでは、あまり物もありませんでした。
洗濯機もありませんでしたので、いつも手で洗濯しては干していました。
お風呂もありませんでしたので、修行道場でお風呂を沸かした日に入らせてもらっただけでした。
夏の暑いときでも洗面器いっぱいの水で体を拭いてしのいでいました。
45歳で管長に就任して洗濯機という便利なものに驚いたものでした。
それから物は増えます。
もらい物も多くなりました。
手紙は膨大です。
いつも勉強したり仕事をする机で、手紙の返事も書いていましたが、もう手紙で体が埋まるようになります。
そこでこの頃は本山の事務所に手紙の部屋を作って対応していますが、それでもあふれるほどです。
いただく本がまた増えました。
有り難いことですが、収納に苦労するようになってしまいました。
道元禅師のお言葉を読むと恥ずかしいばかりです。
建仁寺の話も印象に残っています。
同じく『正法眼蔵随聞記』巻四の四に
「道を学ぶ者は、とりわけ貧乏でなくてはならぬ。」
とあって、
「仏法が次第に衰えゆくさまは、まことにあきらかな眼前の事実である。
私がはじめ建仁寺にいたときの様子が、その後、七、八年たつうちに次第に変わってきた。
寺の寮のそれぞれに、壁で塗りごめた小さな隠し納戸ができ、みな立派な道具類を所持し、きれいな衣服を好み、財宝を貯え、気まま勝手な放言を好み、法にかなった丁寧な挨拶や丁重な礼拝をする人も、次第にすくなくなってきた。
ほかの寺の様子も同様であろうと思われることである。
仏法に従う者は、袈裟と食器のほかは、何も所有するものを持ってはならぬのだ。
何を置くために塗りごめ納戸を設けたりするのか。
他人に隠さねばならぬようなものを持ってはならぬのだ。
持たぬ方が安泰なのだ。」
というのです。
巻四の九にも
「ある日、一人の僧がきて、仏道を学ぶ上での心がけを、おたずねした折に、道元禅師は教えていわれた。
道を学ぶ者は、何よりもまず、貧でなくてはならぬ。
財産が多いと、必ず志を失ってしまう。 」
と説かれています。
そして龐居士の話が説かれています。
「龐蘊道玄居士(唐、襄陽の人。石頭希遷および馬祖道一に参ず)という方は、俗人ではあったが、僧におとらず、禅の上で有名な方である。それというのも、この方は、はじめ禅の道をこころざしたとき、家の財宝を持ち出して、洞庭湖に沈めようとなされたのだ。
ある人がこれを見て、いさめて「人に与えるなり、寺に供養されるがよい」といったところ、
龐居士のお答えは、「私はすでに、これらの財宝は身を害するものであると思って、これを捨てるのだ。そんなものを、どうして人に与えることができよう。財宝は身心を苦しませる仇敵なのだ」と。
こうして遂に海に投げ入れてしまったのである。
その後、生活のために、竹でざるやかごを造り、それを売って暮らした。
俗人ではあるが、このように財産を拾てたからこそ、立派な禅者といわれるようになったのだ。ましてや僧たる者は、何としても一切を捨てねばならぬ。」
というものです。
龐居士については、筑摩書房『禅の語録7 龐居士語録』に、次のように略伝が載っています。
入矢義高先生の現代語訳です。
「居士は、名は蘊、あざなは道玄といい、襄陽(今の湖北省襄陽)の人である。父は衡陽の太守に任じていた。
彼はその衡陽の町の南に仮り住まいし、庵を住居の西に建てて仏道修行に励み、数年して家族すべて悟りを得た。
いま悟空庵がそこである。
のち彼は庵の下手の旧宅を寄進して寺とした。
今の能仁寺がそれである。
貞元年間に、 その数万緡(びん)もの値の家財を舟に積みこんで洞庭の湘江に漕ぎ出し、それをすっかり中流に沈めてしまった。
それからは、流れに浮ぶ一枚の木の葉にも似た生涯であった。
居士には妻と一男一女があり、竹細工を作って売りながら、日々のたつきを立てていた。」
というご生涯であります。
いつのまにか物の多い暮らしになってしまったものの、せめて申し訳ないという慚愧の心を持っていたいものです。
横田南嶺