臨済禅師の生涯
『臨済録』の行録をみても、黄檗禅師のところで修行していたという話から始まります。
それまでどこで何をしていたのか分かりません。
お坊さんの場合、必ずどこかのお寺で出家し戒律を授かっているのですが、それも分かっていません。
それからいつお生まれになったのかも分からないのです。
それですから、何歳で亡くなったのかも分かりません。
臨済という名前は、滹沱河という河に臨んで寺が建てられたことによります。
法諱は義玄です。
出身地は、曹州の南華、今の山東省菏沢地区であります。
山東半島より内陸で、いちばん西南で、もうすぐ河南省になるあたりです。
生まれた年は、おそらく元和年間で、西暦では八〇六年から八百二十年あたりだろうと、里道徳雄先生は、『禅の神髄 臨済録』で述べられています。
そうしますと、寂年を八百六十七年とすると、もっとも早く生まれたとして、六十一歳の生涯となります。
もっとも後に生まれたとすると、四十七歳となります。
臨済禅師の生涯の中で大きなことがありました。
会昌の破仏と言われるものです。
里道先生の『禅の神髄 臨済録』によれば、
「会昌二年(八四二)、教団粛清が始まりました。
八四六年に武宗が亡くなることで事態が収束したとき、四六〇〇の仏寺、招提蘭若などの小規模の仏堂・草庵四万余か所が破壊され、残された寺院もあるいは別の施設として使われることとなり、還俗僧は長安だけでも三四五九人、全国では二六万五〇〇人の多くに達し、僧侶の姿がほとんど世間から見られなくなったといいます」という大弾圧でありました。
そんな時代を生きぬいたのが臨済禅師であります。
黄檗禅師のもとに行くまでどのように仏教を学んでいたのかは分かりません。
ただ臨済禅師が用いられた経典をみると、『法華経』『華厳経』『維摩経』などの大乗経典と、『華厳合論』や『大乗成業論』『法苑義林章』という唯識や華厳の論書を学ばれていたことが分かります。
『臨済録』の行録には、はじめ黄檗禅師のもとで三年行業純一に修行していて、黄檗禅師に三度仏法の大意を問い、三度打たれて、意気消沈して大愚和尚のもとに行きます。
黄檗山と大愚山とは、それほど遠くありませんでした。
大愚禅師から、黄檗はなんとそれほどまで親切だったのかと言われて、ハタと気がついたのでした。
そしてまた黄檗禅師のもとに戻りました。
しかし、『祖堂集』の記述はまた異なります。
はじめは黄檗禅師のところに行くのですが、大愚和尚のことを聞いてすぐに大愚和尚のもとに参じます。
そのとき臨済禅師は、大愚和尚の前で唯識について、一晩中とうとうと私見を述べました。
大愚和尚は黙って聞いていたのですが、「老僧はひとり山中の小屋にいるので、そなたが遠くから釆たのをねぎらって、まあ一夜の宿をすすめたまでだ。何と夜どおし、わしのまえで、有難いともおもわずに糞をたれおった」
といって、杖で数回ぶったたいて突きだし、門をぴたりとしめてしまったのでした。
臨済禅師は再び黄檗禅師のもとに帰ります。
いきさつを聞いた黄檗禅師は、大愚和尚のはたらきを大いに褒め称えます。
それで臨済禅師はまた大愚和尚のもとに行きました。
大愚和尚は「なんでまた帰ってきたか」とまた棒で打ちすえました。
臨済禅師はまた黄檗禅師のもとに帰ります。
しかし、そのときには臨済禅師はすでに悟りを得ていました。
そしてまた大愚和尚のもとに戻ります。
大愚和尚は臨済禅師を見るやすぐに棒で打とうとしました。
臨済禅師は棒をうけとめて、たちまち大愚和尚をよりたおし、その背中をめがけて数回拳骨でなぐりつけました。
大愚和尚はそこでしきりにうなずいて「おれはひとり山小屋にいて、てっきり無駄に一生を送ったと思っていたら、今日はかえって息子がひとりできよった」と言ったのでした。
その後臨済禅師は十年ほど大愚和尚のもとで修行していたと記されています。
大愚和尚が亡くなる前に、「これからさきは、世に出て法を伝えよ。くれぐれも黄檗のことを忘れてはならん」と臨済禅師に告げました。
そしてそれから、臨済禅師は鎮州の町で教えをひろげました。
黄檗禅師の後をうけながら、つねに大愚和尚をたたえたというのです。
そしてその教え方となると、喝と棒を使うことが多いと『祖堂集』には書かれています。
『臨済録』には黄檗禅師に三度仏法の大意を尋ねたことになっていますが、『祖堂集』では、大愚和尚のもとに三度訪ねていることになっています。
どちらの記述が史実なのかを今は確かめることはできません。
黄檗禅師と大愚和尚とその両方の禅師に参じて悟りを開いたということでしょう。
それから臨済禅師はその当時の名だたる禅僧を訪ねては問答し、心境を大いに深めます。
そして正定城外の滹沱河のほとりにお寺を建てて説法されました。
ほどなく城内の有力者によって、臨済の寺は、城内東南の地に移りました。
政情不安な土地でしたが、地元の有力者であった王常侍などが盛んに外護してくれたのでした。
お亡くなりになったところも諸説あります。
弟子の興化禅師の興化寺で亡くなったとも言われています。
お亡くなりになるときの様子は『臨済録』には次のように書かれています。
「師は臨終の時、威儀を正して坐って言われた、「わしが亡くなったあと、わが正法眼蔵を滅ぼしてはならぬぞ。」
三聖が進み出て言った、「どうして我が師の正法眼蔵を滅ぼしたり致しましょう。」
師「もしこのあと、たれかがそなたに問うたならば、どう答えるか。」
そこで三聖は一喝した。
師は、「あに図らんや、わが正法眼蔵はこの盲の驢馬のところで滅びてしまおうとは」と言い終わると、端然として亡くなられた」
というのであります。
もっとも古い記述の残る宋版の『伝灯録』には、偈を説いて亡くなったとのみ記されています。
三聖との問答は後に加えられたものと考えられます。
いずれにしてもよく分からないことの多いご生涯であります。
それでもその言葉が『臨済録』として伝わっているので、その言葉を手がかりに臨済禅師の教えを学ぶことができます。
横田南嶺