はだしで歩く
あめふるふるさとははだしで歩く
という句があります。
この句の前に、山頭火は次のように書いています。
「雨ふるふるさとはなつかしい。
はだしであるいていると、蹠(あしうら)の感触が少年の夢をよびかえす。
そこに白髪の感傷家がさまようているとは。」
と書かれていて、そのあとに、
あめふるふるさとははだしであるく
という句が書かれています。
山頭火のふるさとは、山口県の防府であります。
この句からは懐かしい少年の頃にはだしで野山を歩いたことを思い出しているようにも感じられます。
山頭火がふるさとを詠った句はたくさんあります。
ふるさとは遠くして木の芽
ほうたるこいこいふるさとにきた
かすんでかさなって山がふるさと
ふるさとの水をのみ水をあび
彼岸花さくふるさとはお墓のあるばかり
ほろにがさもふるさとの蕗のとう
ふるさとはあの山なみの雪のかがやく
その一片はふるさとの土となる秋
ふつとふるさとのことが山椒の芽
ふるさとはちしゃもみがうまいふるさとにゐる
ふりかへるふるさとの山の濃き薄き
ふるさとを去るけさの鬚を剃る
ぬかるみをふんできたふるさとのうた
ふるさとの夢からさめてふるさとの雨
山頭火にとってのふるさとは単に懐かしいというだけではありません。
十歳の頃に、お母さんが自死されています。
悲しい思いのあるふるさとでもあるのです。
母のいたふるさとに帰るという母への追慕の思いもあろうかと察します。
山頭火の「はだし」にはいろんな思いが込められています。
先日裏山の六国見山をはだしで歩いてきました。
はだしで歩くと、靴を履いて歩くのとはまた違ったあじわいがあります。
一歩一歩をおろそかにせずに、踏みしめて歩くことができます。
舎利殿の裏の急な斜面を登ったのですが、靴を履いて登るとかなりの急な坂に感じるのですが、はだしですと、地面に接している感覚が強く、体が山の斜面に沿って登っている感じで楽に上がることができました。
またその前日に出会ったはだしの青年も一緒に登りました。
青年は二十一歳です。
普段はだしで暮らしているのです。
円覚寺に見えるにもはだしでやってきました。
町をはだしで歩いてきたのです。
ときには乗り物にもはだしで乗ることもあるそうです。
けっして社会性がないわけではなく、国立大学で森林の勉強をしているのです。
お父さんもはだしで歩いているというので、お父さんに言われてはだしでいるのかと思ったらそうではないのです。
八年前に、沖縄のマングローブ林に入ったときに、ぬかるみで靴を履いているととても歩きにくく、靴が無い方がいいと思ったのがきっかけだそうです。
お父さんも一緒に行っていて、それぞれがはだしに目覚めたのでした。
Tシャツに半ズボンではだしで、なにも物を持たずに来ていました。
じつに身軽であります。
今の時代に珍しい青年であります。
独自の感性を持っているのです。
はだしで歩くとそれはいろんな目でみられます。
中にはさげすむ方もいるかもしれません。
しかし、現代では忘れ去られつつある大事なものがあるように感じます。
はだしというと『広辞苑』には、
①履物をはかずに地上を歩くこと。
②履物・靴下などをはかない足。素足。
③(はだしで逃げる意から)とても及ばないこと。負けること。顔負け。
という意味があります。
「はだしまいり」とは、神仏に願をかけるため、はだしで参ることを言います。
靴を脱ぐことで、人為的なものを脱ぎ去って、謙虚な気持ちになることを表しているように思います。
神仏の前で純粋な思いを表しています。
かつてインドの仏跡にお参りに行ったときに、靴を脱いでお参りするところが何カ所かありました。
敬虔な気持ちを表すのだと思いました。
「はだしの禅僧」という表現もあります。
この場合のはだしというのは、世俗の概念から離れた、飾らない心を表しています。
時代に迎合しない姿勢も表しているようにも感じます。
厳しい修行を貫いている感じも致します。
はだしの禅僧というと関大徹老師であります。
関大徹老師の『食えなんだら食うな』(ごま書房)のオビには、「はだしの禅僧関大徹が戻って来た」と書かれています。
この本の目次をみると、
食えなんだら食うな
病いなんて死ねば治る
ためにする禅なんて嘘だ
若者に未来などあるものか
犬のように食え
地震ぐらいで驚くな
死ねなんだら死ぬな
などなど「はだしの禅僧」面目躍如たるものがうかがえます。
「犬のように食え」とは、どういうことでしょうか。
関大徹老師は、
「犬が餌鉢に顔をつっこんでガツガツ食うのは、犬流の感謝の念をこめて、食事にありついているのだ」というのです。
「犬は犬の流儀で、あたえてくれた人に感謝の「会話」をしていたのである。
もちろん、犬には「感謝」という意識世界はあるまい。
そのかわり、さも感謝しているかのように表面だけとり繕って、心の中で舌打ちしているような気の利いた芸当はできない。
ガツガツ食うことが、犬の「身」の表現である。」
というのです。
そして「禅の食事が正坐と沈黙のなかで行なわれているのは、犬が全身全霊で食うのと何ら変わらないのである。
人間も、ものを食うという営みに全身全霊を打ち込ませるべく、まず、必要最低限の条件として、正坐と沈黙をまもらせる。
おしゃべりのついでに食事をする。
くつろぎの時間のあいだに腹を満たす、というようなことでは、せっかくの食事に対して申し訳がない。」
と書かれています。
はだしになるということにはいろんな意味があります。
坐禅のときにも必ずはだしになるのです。
山頭火の昭和五年の『行乞記』には、
「ここへ来るまでの道で逢った学校子供はみんなはだしだつた、うれしかった、ありがたかった。」
と書かれていますので、まだその頃ははだしで野山を駆けまわる子供の姿があったのでした。
時にはだしになって大地を踏みしめてみるのもよいことかと思います。
今の時代にはだしで歩く青年に接してなにか頼もしいものを感じました。
山頭火のはだしの句を紹介します。
草の青さよはだしでもどる
どうなるものかとはだしであるく
酔へばはだしで 歩けばふるさと 山頭火
横田南嶺