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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.04.10
今日の言葉

村の鍛冶屋

鉄の歴史は古いものです。

紀元前3000年ごろにはすでにメソポタミアで鉄は知られていたと言われます。

初めのころには鉄鉱石から鉄を精錬することはできなかったようです。

隕鉄を鉄の材料としていました。

最初の鉄器文化は紀元前十五世紀ごろです。

ヒッタイトで鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていました。

製鉄は、炉内に木炭と鉱石を層状に装入して鞴(ふいご)で空気を送って燃焼させます。

そうしますと一酸化炭素が、鉄と結合している酸素を奪って二酸化炭素となり金属鉄になります。

この化学反応に必要な温度は400から800度ほどです。

硬いものの上で赤熱のまま打ち叩いて不純物を絞り出し、鉄原子どうしをくっつけ直すことで純粋な鉄にすることができます。

これが鉄を鍛えることになります。

鍛冶というのは「もとはカヌチ(金打)で、「鍛冶」は当て字ですが、「金属を打ちきたえて種々の器物を作ること」を言います。

日本では弥生時代に、青銅器と鉄とがほぼ同時に伝来したようです。

青銅器と鉄がほぼ同時だったために、鉄よりも弱い青銅器は、おもに祭祀に使われ、鉄器は農具や武器に使われました。

鉄は農耕の道具として使われ、そして刀や槍など武器として使われてきました。

また、鉄鋼業は日本の基幹産業として、自動車や建設、家電など幅広い産業を支えています。

それだけに、二〇二三年九月に、鉄鋼大手JFEスチール東日本製鉄所京浜地区(川崎市川崎区扇島)の高炉が操業を終えたことは印象的であります。

前身の日本鋼管(NKK)時代から100年以上にわたって受け継がれてきた火が消えたのでした。

先日は村の鍛冶屋という歌にちなんで法話をしていました。

村の鍛冶屋という唱歌があります。

一、
しばしも休まず槌うつ響き
飛びちる火花よ はしる湯玉
ふいごの風さえ息をもつがず  
仕事にせい出す村のかじ屋
二、
あるじは名高い働きものよ
早起き早寝のやまい知らず
永年きたえたじまんの腕で
うち出す鋤鍬 心こもる

という歌です。

この歌は、大正元年(1912年)十二月「尋常小学唱歌(四)」で初めて発表されています。

歌詞は時代により書き換えられながらも歌い継がれてきました。

しかし、昭和三十年代頃から農林業が機械化するにつれ野道具の需要が激減しました。

職業としての野鍛冶は成り立たなくなってきたのでした。

次第に各地の農村から鍛冶屋の姿は消えてゆきました。

鍛冶屋さんが槌の音をたてて働く姿というのが想像しがたくなってきて、昭和52年には文部省の小学校学習指導要領の共通教材から削除されました。

以後、教科書出版社の音楽教科書から消えはじめ、昭和60年にはすべての教科書から完全に消滅したというのです。

私などはまだこの歌を学校で習ったものです。

生まれ育った家がもと鍛冶屋でありましたので、親しみを覚えたものです。

新宮市には元鍛治町という地名が残っています。

新鍛冶町というのもありました。

私の家の鍛冶屋はもともとは熊野川の川原で営んでいました。

紀州は木材の町でありますので、昔は熊野川の上流から切り出された木材は船で運ばれ、河口の水面に浮かべて取引されていました。

また海運で入った物資もここで川舟に積み替えられて上流に運ばれたため、物流と商取引の中心地となっていたのでした。

また木材を筏に組んで運んでいた時代もありました。

そんな筏に組むときに必要なのがかすがいでありました。

かすがいを作るのも鍛冶屋の仕事でありました。

江戸のころから川原に町ができて、最盛期には三百軒近くもあったと言われます。

それが、昭和二十五年までに川原町は消滅したそうであります。

私が生まれた頃にはもうありませんでした。

私は祖母や父から川原町の頃の話を聞いただけであります。

もっとも川原で全て暮らしていたわけではありません。

あがり屋という家がちゃんとあったのでした。

川原ではお店を出していたような感じでしょう。

よく川で大水が出ると、川原町の家をたたんで担いで上がったのだと聞かされていました。

これを川原屋と言います。

建物の各材をすべてはめ込み式にしていて、 釘を一本も使っていなかったのでした。

短時間で容易に解体、建設できるものでした。

解体時の材木もまとめて高所に運ぶことが可能でした。

水が引くと五時間ほどでもとの川原町が復元できたといいます。

私の父はそんな川原で鍛冶屋を営んでいて、後に鉄工業に変わりました。

それでもまだ私の幼い頃には、鞴などが工場に残っていました。

禅の修行も、鉄を鍛えることに喩えることがあります。

師匠について指導を受けることを、今でも「鉗鎚」を受けると表現します。

鉗鎚とは「鉗」はやっとこ、「鎚」はかなづちの意です。

師である僧が弟子を厳しく鍛錬することを言います。

師のもとに参じることを「爐鞴」に入ると言います。

「爐鞴」とは「鞴」は金属の熱処理や精錬に用いる送風器のことです。

そこで鉄を鍛えるようにして修行するのです。

村の鍛冶屋の二番は、

もともとは
あるじは名高いいっこく者よ
早起き早寝のやまひ知らず
鐵より堅いとじまんの腕で
打ち出す刃物に心こもる

でありましたが、昭和二十二年に改訂されて

あるじは名高い働きものよ
早起き早寝のやまい知らず
永年きたえたじまんの腕で
うち出す鋤鍬 心こもる

と替わっています。

また三番もありました。

刀はうたねど大鎌小鎌
馬鍬に作鍬(さくぐは) 鋤よ鉈よ
平和の打ち物休まずうちて
日毎に戰ふ 懶惰の敵と

というのです。

四番まであったのですが、平和を歌う三番以降の歌詞は、戦時下の国策に不適当として削除されてしまったというのです。

いろいろのことのある歌であります。

鉄は日本の産業を支えてきたものであり、鍛冶屋の働く様子は日本の勤労の精神をよく表しています、

それだけに歌われなくなったのは残念な気もいたします。

 
横田南嶺

村の鍛冶屋

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